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グローバリズムに変質しない「国際主義」は可能か 実践しえない「無窮の実践」というパラドックス

東洋経済オンライン / 2024年6月28日 12時30分

古川:九鬼の立場は後者に近い。しかし、これはこれで危ういところもあって、あらゆる文化や宗教が普遍的なものを現しているというなら、じゃあオウム真理教だって普遍的なのかという話になります。それが、九鬼が批判している「恣(ほしいまま)な得手勝手な日本人」でしょう。だから九鬼は、つねに他の文化に学びながら、「日本文化を世界的理念に根付かせる努力」をしなければならないというわけです。

佐藤:しかしその場合、第1回の記事で古川さんが紹介された坂部恵先生の批判にも一理あることになる。「閉鎖的な文化特殊主義だ」と言って批判するからハズしているのであって、「覇権志向的な文化特殊主義を正当化するものだ」なら間違っていない。自国の文化の中に普遍にいたる道があると構えたら最後、そうならざるをえないのです。

「理解はできるけど、同意できない」

中野:もしそうだとすると、「日本文化講義」を思想局が弾圧しなかった理由がわかりますね。おそらく、八紘一宇と同じ思想に見えたのでしょう。

古川:一歩間違えるとそうなりますね。その「一歩」というのは、個別的なものの中に含まれる抽象的な普遍性を、現実的な普遍性と取り違えるということだと思います。

佐藤:近代日本はもともと、欧米の文化に普遍性を認めて、それに合わせようとするところから始まっています。「いき」の哲学にしても、その条件のもとで、自分たちの個別性を守るべく生まれたものだと思うんですが、これではいつまでも欧米に媚びなければならない。となれば「いつか全世界がわれわれの文化の優越性を認め、こちらに媚態を示す日が来る!」と言いたくなるのは自然のなりゆき。「いき」と「いい気(=自己陶酔)」が紙一重であるように、「意気地」と「意固地」も紙一重なのです。

古川:近代日本の誤りは、西洋文化に含まれる抽象的な普遍性を、現実的な普遍性と取り違えたことです。そうなると、西洋=普遍、日本=個別ということになり、日本はどこまでも日本の個別性を否定して西洋に合わせなければならないということになる。他方、八紘一宇はそれを裏返して、日本=普遍、西洋=個別と考える。そのどちらも間違っているというのが、九鬼の講演の趣旨です。

中野:私からも一点確認させてください。「通約不可能」という言葉の意味は、「理解できない」ということでしょうか。同じものではないのは当然そうなんですが、理解できないのか、真似できないのか、同意できないのか。「理解はできるけど、同意できない」ってあるじゃないですか。認識のレベルでの一致・不一致の話なのか、それとも規範的ないい・悪いの話なのか。

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