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グローバリズムに変質しない「国際主義」は可能か 実践しえない「無窮の実践」というパラドックス

東洋経済オンライン / 2024年6月28日 12時30分

では、具体的にどこが引っかかったか。まずは、普遍主義と個別主義の分類が曖昧な点です。九鬼は最初、「いき」の理念自体は普遍的で、欧米人にも理解しうると主張しましたが、その後、「いき」は日本の特殊性のもとに成り立っているので、欧米人にはせいぜい表面をなぞることしかできない、そんな普遍性はニセモノだと主張するにいたりました。

異質な文化が生み出した表現を、ただ模倣してもニセモノに終わる。これは確かに正しい。ただし、そのことをもって「いき」の理念に普遍性はないと結論づけていいだろうか。

「いき」の理念自体は普遍的だが、具体的な表現との対応関係は文化ごとに違っていると考えることもできるわけです。この場合でも、日本流の「いき」の表現を外国人が模倣したらニセモノに終わる。しかしそれは、「いき」の理念を理解できるのが日本人に限られるからではありません。外国人ならば、自国の文化を踏まえた形で「いき」を表現しなければならないのに、それをやっていないというだけの話。

オーストラリアの映画監督ジョージ・ミラーは、代表作『マッドマックス』シリーズについてこうコメントしています。いわく、『マッドマックス』はオーストラリア独自の自動車文化を踏まえたカーアクション映画であり、その意味では特殊性が高いが、英雄神話という点では普遍的だ。物語の舞台が日本だったら、主人公マックスは侍になる。アメリカなら流れ者のガンマン。バイキングの勇士になることもあるだろう。しかし、本質は変わらない。自分が「個別の特殊性」にこだわる立場を取っているという以外に、九鬼はこれを否定する論理を持ちえているのか。

現に「日本的性格について」に登場する都市のたとえは、普遍主義の発想に基づいています。個別主義に立つのであれば、「異なる文化に生きる国民は、それぞれ違った都市に住んでいる。同じ都市を違った角度から見ているように思いたがるかもしれないが、それは錯覚である」と言わねばなりません。ミイラ取りはこうしてミイラになるのです。

続いて文化の「通約可能性」について。どうも九鬼は、言語を使って抽象性や観念性を高めることだけが、文化間の相互理解を可能にすると思い込んでいるふしがある。そのような「翻訳」は、ナマの人生体験から遠ざかってしまうので、実感をもって理解したことにはならないというわけです。

佐藤:しかし論理や観念とは異なる手段で、異文化を理解することもできる。イギリス出身の名演出家ピーター・ブルックは、『鳥の会議』という芝居でバリ島の仮面を使いました。とはいえ欧米の役者が、バリ島の仮面劇の所作をただ模倣しても説得力がない。

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