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グローバリズムに変質しない「国際主義」は可能か 実践しえない「無窮の実践」というパラドックス

東洋経済オンライン / 2024年6月28日 12時30分

にもかかわらず、ナショナリズムはグローバリズムに対立すると考えて、ナショナリズムを否定してしまえば、まさに九鬼が言うように、日本人は「世界的文化の創造に対して無能力者になってしまう」でしょう。いわゆる「グローバルに活躍する日本人」を育てたいのであれば、まずナショナリズムに立脚して、日本の文化的特殊性に自覚的でなければならないということです。

そのうえで、日本とは異なる各国の文化的特殊性を尊重して、お互いに学ぶべきところを学び合っていく。こうして本当の意味で世界が発展していくわけです。これはまさしく、国民保守主義をめぐる前回の研究会で施さんからご提言のあった「国際化」の路線ですね。「グローバルに」というよりも、「国際的に」活躍できる日本人をめざしていくべきだというのが、九鬼の主張でもあったわけです。

中野:ありがとうございました。それでは、施さんからコメントをいただけますか。

一般性は個別性の中にこそ宿る

施:はい。どうもありがとうございました。非常に面白く拝聴しました。九鬼が望んでいたこと、「グローバル化」と「国際化」に関する考え方もまさにそのとおりだと思います。普遍的なものや一般的なものは個別性の中にしか現れないという見解にもまったく同感です。

例えば、日本や他の国々が自分たちの個別性を追求する中で、その過程で一般性というものの中身が充実していく、という構造が確かに存在すると思います。このあたりのことについては、昨年私が書いた「ポスト・グローバリズムの世界秩序の探求 : カール・ポパーのナショナリズム論に対する批判的検討を手がかりとして」(『政治研究』第70号、2023年)という論文でも触れていますので、古川さんにもぜひ読んでいただきたいです(笑)。

施:それで、今のお話を聞いて、言語を例に取ると理解しやすいかもしれないと感じました。つまり、わたしたち日本人は、世界を認識するためには母語である日本語を通じてでなければ、より深く理解することは難しいと思うんですよね。外国語を一所懸命勉強すれば、ある程度使えるようにはなるでしょうが、皮膚感覚まで理解するためにはやはり母語が必要です。ですから、われわれの認識の道具でもある日本語を徹底的に洗練しなければ、よりよい認識にはたどり着けないと思うんですね。

しかし、いかなる言語も所詮一つの角度からの眺めでしかないということも事実です。どの言語もその言語の持つ世界観は非常に限定されているため、私たちは日本語を洗練し充実させると同時に、その限界や偏りも認識しなければなりません。

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