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「この金で逃げてくれ!」唐十郎が頼んだ韓国詩人 アングラ演劇の旗手と韓国の大詩人との邂逅

東洋経済オンライン / 2024年7月7日 9時0分

一方、唐十郎は1958年に明治大学文学部演劇科に入学したが、在学中から学生劇団「実験劇場」で俳優として活動した。1963年には劇団「シチュエーションの会」を旗揚げし、翌1964年には「状況劇場」に改名した。

1967年に東京・新宿の花園神社境内にて初の紅テント公演を行い、「天井桟敷」を主宰した寺山修司(1935~1983年)とともに「アングラ演劇の旗手」とされた。

唐十郎は1969年に「状況劇場」の沖縄公演をしようとした。しかし、当時の妻であり演劇活動のパートナーであった女優、李礼仙(1942~2021年、後に李麗仙と改名)は在日韓国人であり、当時アメリカの管理下にあった沖縄へのビザが下りなかった。

唐十郎はこのことを内在的なモチーフにし、1972年にソウルと東京を結ぶ「二都物語」を書いた。唐十郎はその最初の公演をソウルでやろうと考えた。

唐によると、「二都物語」は「幽霊民族である日本人の地下水をたどり、その根源をさぐることによって現代の日本人を検証しよう」というものであった。ソウル公演の準備のために唐十郎氏は2度、訪韓した。しかし、韓国側の演劇人は当時の戒厳令下の状況から「それは無理だ」と言った。

しかし、唐十郎氏は現場に行って上演を考えようと1972年3月に2週間のビザで訪韓した。この「海峡遠征隊」に参加したのは唐十郎、不破万作(1946年~)、李礼仙、根津甚八(1947~2016年)、大久保鷹(1943年~)の5人だった。

2週間の観光ビザで演劇を上演することは難しかった。監視を逃れるため、旅館を4回も変えた。ソウルでの上演を目指そうと試行錯誤し、ようやくたどり着いたのが金芝河だった。

唐十郎に金芝河を紹介したのは当時の共同通信ソウル特派員だった菱木一美だった。菱木は東京外国語大学で演劇部に所属した元演劇青年で、唐の話を聞き、同じ異端演劇人の金芝河を紹介した。唐十郎氏が金芝河氏と会った日も、金芝河は当局に2日間拘束されて解放されたばかりだった。

当時、中央公論社の文芸誌『海』の編集者だった作家の村松友視は唐十郎に注目し、一緒に訪韓した。一行は「二都物語」の稽古を村松のホテルの部屋でやった。村松は当時のことを、こう述懐する。

「『二都物語』の稽古は、ホテルの私の部屋で行われ、ダブルくらいの部屋に唐十郎一家の5人と金芝河一家の4人が寄り集まり、英語、日本語、韓国語が飛び交う不思議な稽古風景となった。稽古のあとは酒宴となり、唐十郎は李礼仙を頭上にかつぎ上げて回転させ、かつての金粉ショー・ダンサーとしての時間をよみがえらせた。これに対して金芝河は、若い仲間にアイス・ボックスを叩きながらの『アリラン』を歌わせ、自らはそれに合わせて激しい踊りを披露した。『二都物語』の公演は(先に帰国して)見ることができなかったが、あのホテルの一室での鮮烈な記憶が、私の頭にはずっと灼きついていた」

ソウルで「二都物語」をゲリラ公演

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