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紫式部「源氏物語誕生」裏にある"まさかの悲劇" 2歳の子を育てる紫式部を襲った突然の出来事

東洋経済オンライン / 2024年7月28日 8時0分

紫式部が、父の為時と元同僚で親戚関係にある宣孝と結婚したのは、長徳4(998)年頃のこと。式部は20代で、宣孝は40代だったとされている。

式部は、父が越前守になると、ともに越前に同行するものの、父の任期終了を待たずして、宣孝との結婚生活を送るために京に戻った。結婚の翌年には、第1子となる娘の賢子(大弐三位)が誕生している。

順風満帆のようにみえるが、結婚生活は必ずしも幸せなものではなかったようだ。式部より20歳も年上となる宣孝には、藤原顕猷の娘、平季明の娘、藤原朝成の娘など妻が多数おり、その間には隆光、頼宣、儀明、隆佐、明懐らの子も産まれていた。

なかなか自分のもとに訪れない夫の宣孝のことを、式部はホトトギスに例えながら、こんな歌も詠んでいる。

「たが里も とひもやくると ほととぎす 心のかぎり 待ちぞわびにし」

ホトトギスは誰の里にも訪れるもの、だから私のところにも来るんじゃないかと、待ちわびている――。

夫が自分以外の女性のもとにばかり通っていると思うと、待つ身の式部としては、さぞつらかったことだろう。

だが、宣孝は女性たちとうつつを抜かしてばかりいたわけではない。仕事のほうも、かなり精力的にこなしている。

前述した『権記』を見ると、長保元(999)年10月21日には、「弓場始」(ゆみばはじめ)という、宮中弓場殿での弓術始めの儀式が行われて、「右衛門権佐宣孝を所掌とした」と記載されている。

そうかと思えば、11月11日には、賀茂臨時祭の調楽が行われ、宣孝が「人長」、つまり舞人の長として、大いに張り切ったようだ。『権記』には次のように記されている。

「今日、調楽が行われた。殿上のあちこち、下侍の前において、盃酒の饗宴が行われた。右衛門佐の人長は、甚だ絶妙であった」

そして、11月27日には、神社に参向して神々に対して幣帛を捧げる、宇佐神宮の奉幣使として京都を発っている。

大河ドラマでは、神楽の人長や奉幣使に任じられたことについて、まひろ(紫式部)が「11月はお忙しくなりますね、大事なお役目を2つも」というセリフで、忙しい夫をねぎらう場面もあった。

多忙さが知らず知らずに身体に障ったのだろうか。もしくは、さまざまな場所に出入りするなかで、疫病を患ったのか。いずれにしても、エネルギッシュな宣孝だけに、その死は式部にとって、よりショッキングな出来事だったに違いない。

将来が心細くて仕方がなかった

突然、夫を亡くした式部は『紫式部日記』で「年ごろ、つれづれに眺め明かし暮らしつつ」、つまり、「長い間することもなく、物思いに耽って夜を明かして、日暮れまでぼんやりと過ごしながら」と書いているように、放心状態にあったようだ。

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