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亡き娘の部屋に父が見つけた、悲しみ絶えぬ詩歌 「源氏物語」を角田光代の現代訳で読む・葵⑧

東洋経済オンライン / 2024年8月11日 17時0分

この世のはかなさに思いめぐらせて、さまざまな感慨を覚えて泣く光君は、悲しみに深くとらわれていながらも優美でうつくしかった。左大臣はなんとか涙をこらえて口を開く。

「年をとりますと、ささいなことにも涙もろくなるものですが、ましてや涙の乾く間もないくらいのどうしようもない悲しみを、とても静めることができません。他人が見ても、取り乱して、心の弱い者だと思うでしょうから、私はとても参上などできません。何かのついでに、そのように奏上ください。余命幾ばくもない老いの果てに、子どもに先立たれるなんて、こんなにつらいことがありましょうか」

だれも彼も心細そうに

無理に気を静めて言う左大臣は気の毒なほど痛々しい。光君も洟(はな)をかみながら言う。

「死に後れたり先立ったりする命の定めなさは、この世の常と承知しているものの、いざ自分の身に降りかかってきますと、悲しみの深さは何ものにも比べられないものですね。院にも、この様子を奏上いたしましたら、おわかりになってくださいますよ」

「では、時雨もやみそうにありませんから、暮れないうちにお出かけなさいませ」と左大臣は光君を急かす。

あたりを見まわすと、几帳(きちょう)の陰や襖(ふすま)の向こう、開け放たれたところには、三十人ほどの女房たちが、濃い鈍色(にびいろ)や薄い鈍色の喪服をそれぞれに着て、だれも彼も心細そうに泣きながら集まっている。なんと悲しい景色だろうと光君は思う。

「あなたがお見捨てにはなるはずのない若君もお残りなのですから、何かのついでにお立ち寄りくださるだろうと自分をなぐさめてはいるのですが、考えの足りない女房たちは、今日を限りにあなたがお捨てになる故郷だと思いこんで、亡き人との永遠の別れより、親しくお仕えしてきた年月がすっかりおしまいになるのではないかと嘆くのも無理からぬこと。ゆっくりと我が家にいてくださることはありませんでしたが、それでもいつかは、とみな虚しくも期待していたのですから……。なんと心細い夕べでしょうか」と左大臣は言う。

「そんなふうに嘆くのは本当に考えが足りませんよ。おっしゃる通り、何があろうと私を信じてくれるだろうとのんびりかまえて、無沙汰をしてしまうこともありました。けれどあの人がもういない今、どうしてそんなにのんきなことができましょう。私が見捨てるはずもないことは今にわかるはずです」

と言い、光君は邸を後にする。それを見送ってから、左大臣は光君と葵の上の部屋に入った。部屋の飾りつけをはじめ、何ひとつかつてと変わらないのに、蟬(せみ)の抜け殻のように虚しく見えた。

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