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子を亡くした女性にブッダが"冷たく"接した理由 「諦める」は、仏教では「明らかに見極める」

東洋経済オンライン / 2024年8月15日 17時0分

佐々木:素晴らしいストーリーです。梵天勧請をはじめとする架空の話が多く入っていて、すべてを歴史的事実として認めることはできませんが、「釈迦とはどういう考え方をした人なのか」を皆に知ってもらいたいという思いでつくられた、とても優れた物語です。

自分で動いて、初めて「子どもの死」を理解した

古舘:「ゴータミーの芥子」(からしをケシとする場合もある)もあとから創作された話ですか。

佐々木:釈迦の弟子になったキサー・ゴータミーという女性の話ですね。誇張はあるかもしれませんが、これはとてもリアルな話なので、実際の事件に基づいているのだろうと思います。

古舘:ゴータミーは貧しい家からお金持ちの家に嫁ぎ、子どもも産まれて幸せな日々を送っているのに、ある日その子どもが病気で亡くなってしまう。悲しみのあまりその子の遺体を抱えたまま、出会う人ごとに「この子を生き返らせてください」と無理なことを頼みながら町中をさまよっているときに釈迦と出会う。

釈迦は「死者を出したことのない家に生えている芥子のタネを持ってきたら、それで生き返らせる薬がつくれるだろう」と言って、ゴータミーはすぐさま町中の家を訪ねて芥子のタネを探しまわるわけですね。死者を出したことのない家なんてないのに探してこいなんて、ひとつ間違うと釈迦が超意地悪に取られちゃうじゃないですか。

佐々木:ゴータミーは、子どもが死んでしまったことを頭では理解しているでしょう。でも心が受け入れられないのです。いくら探しても、死者を出したことのない家の芥子のタネが見つからず、意気消沈して戻ったゴータミーに、釈迦は「死者を出していない家などない。人は皆、死ぬ定めである」と言い、ゴータミーはこの言葉で初めて、子どもの死を納得して受け入れることができたとされています。誰にでも死は訪れるということを、実際に自分で体を動かして家々を訪ねてまわることにより、初めて実感として理解したという話だと思いますね。

「諦」という漢字に「真理」の意味がある

古舘:見せかけの優しさで慰めれば、その場を一時的には丸く収めることができたのに、釈迦は苦い真理をしっかりと教えましたよね。日本語で「諦める」は放棄や断念など、ネガティブなイメージで使われることが多いと思いますが、仏教では「明らかに見極める」ということですね。

佐々木:おっしゃるとおり、仏教では「諦」という漢字に「真理」の意味があると考えます。釈迦の重要な思想であり、仏教の基本方針に「四諦八正道」というものがあります。四諦とは「苦諦・集諦・滅諦・道諦」の4つの真理。八正道とは、煩悩を消滅させるための具体的な8つの道。すなわち苦しみから逃れるために、正しい心を実現するためのトレーニング法です。ゴータミーはその後、釈迦の弟子になりますから、釈迦の指導によって本当に救われたのでしょう。

古舘:イスラエルの歴史学者で『サピエンス全史』を著したユヴァル・ノア・ハラリが、「釈迦は渇愛から逃れるトレーニング方法を開発した稀有な存在。だから、私は釈迦のファンだ」と言っています。あのスタンスはいいですよね。

佐々木:はい、私もハラリに同感です。「渇愛」とは仏教用語で、喉の渇きに耐えかねた者が激しく水を求めるような、強い欲望や執着を意味します。だから渇愛というものは、つねに不満や苦しみを伴うのです。

古舘 伊知郎:フリーアナウンサー

佐々木 閑:花園大学特別教授

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