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日本政府の「西欧偏重主義」に日本人は飽きている 長崎平和式典「イスラエル招待しない」から見える感情

東洋経済オンライン / 2024年8月17日 9時0分

明治以来敗戦まで、一貫して自由に発言することをモットーとした『東洋経済新報』の石橋湛山は、1960年にこう述べている。

「故にイエスかノーかは、時の政府の考え一つで生かすことにもなれば殺すことにもなる。この有利な立場に立ったとき、日本政府の取るべき態度はきわめて簡単明瞭に自国の憲法に依拠すればいい。これは当然であるとともに、アメリカを含む世界のいかなる国からの内政干渉をも断固として拒否しうる堂々たる建前であり、かつ世界平和への先駆者たるの使命を果たすものではないか」(『石橋湛山評論集』岩波文庫、275ページ)

もちろん、今問題になっているのは日本政府ではなく、長崎市の問題である。政府=市民ではない以上、市の自由判断はあってもいいのだ。そして、日本政府ではなく、日本国憲法にしたがって、長崎独自の判断をしたのである。

かりに政府と市とを区別したとしても、日本政府にとってすら解せないことが多くあるはずである。それは、G7の持つ奇妙な性格である。

もともとG7の提唱者であるフランスのジスカール・デスタン元大統領(1926~2020年、大統領在任期間1974~1981年)は、日本を除く欧米諸国の西欧同盟を模索していた。当然のごとく、日本は最初はそこに入っていなかったのだ。

1973年のオイルショックの後、石油価格の価格維持とドル体制の堅持を目的として設立された旧欧米列強による組織が、そもそもG6だった。当時の西ドイツを抜いてGNP(現在ではGDP=国内総生産)第2位だった日本は、西側経済の枢要国であったことで、そこに招待された。

とはいえ、その意味で日本政府にとって、その椅子は最初から座り心地のいいものではなかったのである。

経済成長とともに欧米列強と肩を並べるようになり、列強の仲間入りをしたというのがG7に入ったということの意味なのだが、それは晴れて日本が西欧諸国の仲間になったということを意味していた。

一方で、日本はどこから見てもアジアの国であり、アジアの中で独自の政策をとらざるをえない国だった。とりわけオイルショックで欧米諸国に翻弄された日本は、日本を助けてくれたアジアの地域である中東諸国に対して、G6のようにイスラエル支持を鮮明にすることはできなかったのである。

西欧とアジアの間に落ちた日本の矛盾

G7が先進国連合というだけであれば、当時の日本の力からいって十分ふさわしい位置を確保していたが、一方でG7は西欧先進国連合=西側世界の連合であり、アジアに対して長い間支配してきた白人帝国主義列強の集まりでもあった。

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