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赤坂真理さん独白「生きるのにお酒が必要だった」 わたしは依存症ではなくアディクション当事者

東洋経済オンライン / 2024年8月21日 16時0分

「依存症」ではなく「アディクション」と言ってみたい(写真:矢部ひとみ撮影)

「シリーズ ケアをひらく」は、第73回毎日出版文化省を受賞した医学書院のレーベル。2000年のスタート以来、医療関係者以外の幅広い読者に購読されています。

そのシリーズ最新作、作家の赤坂真理さん著『安全に狂う方法 アディクションから掴みとったこと』より一部抜粋・編集してご紹介します。

依存症とアディクション

わたしにはなぜかアディクション─世の人が「依存症」として問題にするもの─が、人間の心の秘密やメカニズム、根源的な苦しみにかかわることのように思えていた。

むかしからそんなふうに思っていた。二十数年も前、実家にいながら親とも口をきかずに一人の部屋でお酒を飲んで、気持ちの緊張やいたたまれなさがそのときだけ緩まり、空気もぬるくなって、わたしはやわらいだ気持ちになれた。当時の飲酒を思い出すときはいつも、肌はぬるい空気をまとっている。翌朝二日酔いになろうが、今は気持ちがいい。それだけでよかった。

わたしは誰の助けもいらないと拒否しているようでいて、落ちてくる甘いしずくに向けて口を開け、彼らの言葉を待っていた。彼ら。まだ時間で課金されていたころのインターネットでわたしが読んでいたのはアディクト、いわゆる依存症者たちの言葉だった。いつもできたての彼らの言葉が、わたしの数少ない好物だったのだ。

彼らの言葉が、わたしが感じる、数少ないリアルなものだった。他はみな、どこかとりつくろっているように感じられたものだ。自分自身も含めて。他のところでは失敗のことは語られなかったし、心の弱さのことも恥ずかしい体験も語られなかったし、語れなかった。自分が自分を裏切ってしまうことも、そうしてお酒や薬や眠りに逃げ込んでいくことも。

外で他人と居ていたたまれなくなると─わたしは疎外感を強く感じるタチなのだが─一刻も早く家に帰って一人でお酒を飲みたいと思うことがあった。あるいは、早く家に帰って一人の部屋で泣きたい、と思うようなことが。人といてもそのことばかり考えた。人と一緒の仕事中にも考えた。帰り道にお酒を買って帰宅し、深夜にお酒が足りなくなるとふらふらコンビニに買い足しに行ったりした。

「依存症」では言い切れない感覚

わたしは生きるのにお酒を必要としていた。あるいはなんらかの神経をなだめてくれるものを。気分を大きくさせてくれるものを。お酒はおいしいと同時に、生きる方法だった。

それでも自分は依存症の人とはちがうと思っていたのは、致命的な失敗がなかったということに尽きるだろう。一般的な二日酔いや、許容範囲の遅刻欠席などで済んでいた。しかしわたしは問題や心の痛みを抱えていたのであり、それはお酒でも癒えなかった。ごくわずかな時間、なだめられるだけだった。それが醒める時間はみじめだった。

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