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赤坂真理さん独白「生きるのにお酒が必要だった」 わたしは依存症ではなくアディクション当事者

東洋経済オンライン / 2024年8月21日 16時0分

あるときから自然とあまりお酒を飲まなくなったのも、依存症とは思わなかった一因だろう。三十代半ばごろからだろうか。もともとがお酒が強いほうではなかったからかもしれない。

しかし酒量が適度になって、何かが「治った」のかと言えば、そうではない。生き方には問題があり続けた。今思うと、そうとしか言いようがない。関係性がことごとく恋愛じみたり(同性とでもそうだったと思うし、もっと言えば女友達があまりいないのが問題だった)、人間関係も同じようなポイントで切れてしまっていた。同じところでフリーズするように、同じ失敗パターンを何度も繰り返していた。

こちらのほうがお酒より損害があったし、人に迷惑もかけたと思う。手の込んだ自傷のようなものも続いたし、危険なことをしてはそれをくぐり抜けて安堵する、といったこともやめられなかった。

やめられなかったのだ、やめたくても。それが損害や痛みや危険をともなうものであっても。

とすると、目に見える症状よりは、「やめたくてもやめられない」という不可解な自分の状態のほうが問題の本体ではないだろうか。その強迫性。

「依存症」とは、あくまで治療のために作り出された言葉だ。問題飲酒など、表面にあらわれた症状がよくなることをゴールとしている。しかし「症状がよくなる」とはゴールではなくて経過ではないのか。その人を「依存症」にまで押しやった力は、そのまま残っているのだから。

さらに力はそのままに症状だけが見えにくくなっていくことは、ある意味で危険ではないだろうか。いきなり自殺したり他害へと爆発しかねないのだから。

発見されにくいことは危険だ。とりわけ自分自身に発見されにくいことは危険だ。依存症という言葉では何かが見えなくなる。わたしは何かが見えないままに、そして見えにくいからこそ、危険な状態を長く続けた。

わたしは今、依存症ではなく「アディクション」と言ってみたい。単なる言い換えではない。アディクションとは、自分が何かに強迫的にとらわれている状態すべてだ。コントロール不能のまま何かにとらわれていること、その不可解さも含めた全部の状態だ。問題飲酒など、それがどんな症状であったとしても、その症状を出してしまう大もと、と言ってもいいかもしれない。

わたしは一人のアディクト(アディクション当事者)である。

そう認める。

アディクションに対し、コンロトールを持てない。

そう認める。

認めたうえで、そのコントロールの持てなさまでを、できる限り語ってみたいのだ。

コントロールの効かない運命的な出会い

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