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赤坂真理さん独白「生きるのにお酒が必要だった」 わたしは依存症ではなくアディクション当事者

東洋経済オンライン / 2024年8月21日 16時0分

「依存症」というのは、日本語としても不思議な感じがする。

「依存する」とは、主体性がない、それなしではいられない弱い人、のようなネガティブな意味合いの言葉であるにもかかわらず、それ自身ははっきり能動的な言葉だ。「わたしは〇〇に依存している」は、酒であれなんであれ、わたしの「選択」ということになる。ここに「自己責任論」も出てくる。

けれど依存症の実相が能動的なことだとはとうてい思えないのだ。依存しようとして、しているわけではないからだ。

むしろ英語でbe addicted to〜と受け身で表現されるほうが、アディクションの実態にはまだ近い。当事者によっては、酒やコカインやギャンブルや恋愛対象から寄ってこられるようにさえ感じられているのではないか。自分が避けようとしても、あちらのほうからやってくるのだ。受け身であるほうが、「主体性を発揮しようもなく、そこから離れられない」という実態に近い。

もしかして、それは受け身ですらないかもしれない。実際のところ、それは能動と受動の中間にあるのではないだろうか。求める気持ちもあるが、対象のほうが自分にやってくる感じがあり……だとするとそこにあるのは一種の出会いだ。運命的な出会いだ。あまたのモノやコトに触れる中で、なぜだか“それ”とだけ一対一の強い関係が生じる。“それ”​とわたしとの恋愛関係だ。自分の気持ちだけでもなく、対象の魅力だけでもない。引き合う引力そのもののような中で、第三の状態が生じる。アディクション。そこには自分のコントロールは効かない。

アディクションとはどんな状態か

アディクションとは、主体性を発揮したくてもできない状態のことだ。

自分というものの力を信じ、自分をコントロールすることがよしとされる現代西欧型社会で、これは脅威だ。アディクションが排除され差別されなくてはならないと社会が考える理由はここにある。なかでもイメージとして反社会的なものは、刑法の罰が与えられる。コカインよりアルコールで心身が壊れた人や周囲を壊した人のほうがずっと人数が多いにもかかわらず、アルコール所持は罪がなくコカイン所持は厳罰である。

これはイメージに課せられた罰であり、それを見るとその社会が何を差別したいのかが見えてくる。アメリカでは、アディクションに課せられる罪はマジョリティの世界に根強く残る人種差別が合理化されたものだと、『依存症と人類』(みすず書房)の著者で自ら強度のアディクションに苦しんだアメリカの精神科医カール・エリック・フィッシャーは言っている。有色人種や低所得層がアクセスする薬物は罪が重く、白人富裕層がアクセスする薬物は罪が軽い、など。それが日本では多分に、イメージ的な差別になっている。大麻所持への厳罰化も「はずれたイメージの人」を社会が許さないのである。それ以外に理由が見つけられない。

赤坂 真理:作家

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