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赤坂真理さん独白「本当に欲しいのは幸せだった」 「生きづらさを緩和しようと」して求めたもの

東洋経済オンライン / 2024年8月22日 17時0分

さて、述べたように日本語は、オフィシャルな用語は漢語にしなければ気が済まない文化だ。だったら、と考えてみる。もっと端的な漢語を探してみようではないか。

とても歴史の古い言葉が頭に浮かんだ。「執着」。これは「依存症」よりはるかにアディクションの本質に近いし、ブッダはすでにすべての苦しみの元のことを執着だと言った。だとしたらアディクションの苦しみとは、人類の歴史と同じくらいに長い。人間の苦しみはすべて多かれ少なかれアディクション、と言うことができる。

さらに考えてみる。対象から離れられないという意味に強調を置くと、わたしとしてはこう言ってみたくなる。

「固着」。

ここでは、依存症や嗜癖という言葉に替えて、基本的に「アディクション」「固着」を使っていきたい。

何かに固着すること。こだわらずにいられず、そのことが頭から離れず、実行せずにいられない気持ちになること。しかしその実行によって、新たな苦しみが生まれてしまうこと。

考えてみれば不条理きわまりないこうした状態に、ある年齢以上の人間のほぼ全員が悩んだことがあるはずだ。これはほぼ心のメカニズムそのもののようにも思える。だからアディクションについて考えることは、人類にとっての「心の取り扱い説明書」を書くようなものだとわたしは思う。

それは最初に傷を覆う方法だった

人類の問題としてアディクションを考えてみたい。人として幸せになるために、だ。アディクションから回復するためにではない。回復は手段であって目的ではない。それに、どこに戻りたいというのだろうか。そもそも元いた世界がつらかったからアディクションが始まったのではないか。アディクションでそこから逃れたかったのではないか。

依存症の治療として、主訴だった症状が止まったことを達成だとみなす考え方が流布している。世間はおろか治療者も支援者もそう考えているふしがある。そのうえで「回復」が最もよいこととされている。「回復」とは、症状が止まるのみならず、社会の有用な一員となり、後続アディクトたちの手本となることであるという。ハードルが高すぎないか?

社会に望まれる回復とは「再適応」に他ならない。型が決まっている。むろんそれが当人にとっての最終目標であったならば、わたしとて異論はない。しかし、苦しかったところにまた帰りたいだろうか。本当に欲しかったものは、「幸せ」ではなかったか。そもそも幸せになりたかったからこそ、アディクションをしたはずだ。そう、幸せになりたくて始めたことだ。それがどんなにダメージがある方法だったにしても。

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