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サハリンに廃墟として残る戦前の日本製紙工場 豊富な資源を目当てに設立、現在もその姿を残す

東洋経済オンライン / 2024年8月25日 13時0分

昭和2年から操業開始したということは、敗戦までの18年しか動いていなかったことになる。

とはいえ、この工場は戦後の製紙工場の発展において、重要なものだったと感じた。

残念ながら、こちらの工場は、煙突を残して取り壊されてしまった。

鉄道の便のよさと不凍港

最後にホルムスク、日本名で真岡という町だ。間宮海峡に面した、水産業が盛んな町だった。 ここもやはり製紙工場ができると急発展した町だ。

ホルムスクは港湾都市であり、市場も多く、今回訪問したサハリンの街の中では一番活気があった。1945年8月20日、終戦後にソ連軍の襲撃を受けて多くの日本人が犠牲になったところでもある。

そんな街に存在した真岡工場。1919年9月操業開始した。他の工場では、周りに何もなかったが、真岡は割とすぐのところに住宅地がある。

恵須取や知取工場のように水もきれいではないし、土地も広くなく、森林も多くない。資源には恵まれていない。

それでも工場ができたのは、鉄道の便と、なにより冬でも港が凍らない不凍港(ふとうこう)だからだという強みがあったようだ。工場の建設にあたって、配慮された点は、雪解けの水をダムに貯水して工場用に使ったという。

もともと真岡は木造の工場だったが、初代工場は大火災になって、のちにコンクリートに建て替えられたそうだ。

日本はこれだけの大きい夢を形に変えたのだが、敗戦したことで多くの人を巻き込み、インフラはすべて失うことになった。9つすべての工場は、敗戦後はソ連に接収された。

その後、ソ連が製紙工場を引き継いだが、製紙業界にはあまり投資されることもなく、発展には至らなかった。日本が残した技術も陳腐化し、廃墟になっていった。

あまり本や新聞を読む習慣が、日本より少ないからか。実際に、ユジノサハリンスクでも、本屋は見かけなかった。

廃墟の歴史をひもといていくとこのように日本の壮大な夢が隠されていた。かつての日本が樺太に残した東洋の夢の証しだと思う。わずか40年だが、その間に日本が残した爪痕は、今もサハリンの大地に点在している

那部 亜弓:フォトグラファー

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