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サハリンに廃墟として残る戦前の日本製紙工場 豊富な資源を目当てに設立、現在もその姿を残す

東洋経済オンライン / 2024年8月25日 13時0分

勇気を出して、近づこうと足を踏み出す。雨と雪、そして海も近いので海風、これが時間の経過で摩耗した傷跡が錆びて風格を増している。

これまで日本国内でも製紙工場の廃墟に足を踏み入れたことはあったものの、廃墟というよりも古いプラントという感じで、 遺跡に近いのは初めて見た。

探索中に番犬6匹に襲われる、などのアクシデントがあったが、多くの痕跡を感じ取ることができた。

訪れたのは9月末だったが、緯度が高いため、体感的に12月の気温に相当する。着ていたジャケットでは肌寒かった。この日の夜、食事をしようと入店したレストランでは結婚式が行われており、街の人たちが集まっていた。

残留日本人と話す

その中に、日本人の男性を見かけたので、話しかけた。恵須取で幼少期を過ごし、戦後も日本には戻らず、ここで暮らしていらっしゃるようだ。

こちらの言葉は理解できるのだが、60年以上日本語から離れていたため、アウトプットはやはりロシア語だった。この地がロシアであること、64年の歳月を彼を通じて感じた。

東海岸の町マカロフ、日本名で知取町にも巨大工場が存在した。ユジノサハリンスクからは列車で向かうことはできるが、ウグレゴルスクの翌日だったため、引き続き車で向かった。

同じく北部にあるため、直線距離はそんなに遠くないのだが、道路の問題で行きに通った一本道をひたすら南下してぐるっと大回りしなければならなかった。

知取町は農林水産業の街だったが、1927年に富士製紙が後背地の森林資源と知取川を生かしてパルプ工場を建設すると、大きく発展した。

工場ができてから、人口が一気に急増する。豊富な森林資源を生かして製紙工場で発展して樺太の第3の街まで上り詰めた。

知取の製紙工場は樺太の製紙業界が全力を挙げて建設した工場で施設が本当に広大だった。大正13年(1924年)に建設が始まって昭和元年(1926年)に完成、翌昭和2年から操業を開始した。

工場構内に炭鉱の坑口があり、工場の大事な燃料である良質な石炭をその場で入手できた。 広大な施設に豊富な森林資源、鉄道もあり、知取川の支流から工場も近いので製紙づくりにはうってつけの地形だ。

内部を見渡すと、この工場の特徴はほかの工場より奥行きのある空間が多いと感じた。川から原材料である木材をいかだで運んでいた。

調木、パルプ生成、抄紙、仕上げという生産ラインが直線状に整理されていて、ほかの工場より圧倒的に効率的に進化していた。まさに、製紙工場ができるために誕生した町といっても過言ではない。

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