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サハリンに廃墟として残る戦前の日本製紙工場 豊富な資源を目当てに設立、現在もその姿を残す

東洋経済オンライン / 2024年8月25日 13時0分

樺太の森林のほとんどは国有林で、森林資源確保のため1907年、森林調査を実施した。その結果、樺太の針葉樹林はパルプ生産に適していることがわかると内地の大企業の工場誘致を行い、1914年の大泊工場を皮切りに、各地に相次いでパルプ工場が建設された。

1933年には王子製紙、樺太工業、富士製紙の三大製紙工場が合併。南樺太には9つの製紙工場が誕生した。巨大化した王子製紙は「大王子」とよばれ、樺太のパルプは日本の供給量全体の80%を占めるようになった。

いずれは、シェアを樺太で100%にしようと目指していたようだ。巨大廃墟と日本の発展を突き詰めたら面白いのではないかと考えた。

資源よし、土地よし、人材よし

恵須取工場は大正14年(1925年)に完成、11月から操業している。従業員は1800人以上いたそうだ。西海岸では最北の工場だ。

9つの工場の中で、最もアクセスの悪い場所が恵須取町(現ウグレゴルスク)だった。旅費もとても上がる。時間も取られる。しかしそれでも外せなかったのには理由がある。

それは、①1940年では樺太最大の人口の産業都市だったこと、②古い資料によれば、樺太で最も生産能力が高い工場だったということ、③木釜(木を煮る機械)の数が他の工場より多いということで絶対規模が大きい工場だと確信したからだ。

ウグレゴルスクは西海岸なので、稼働している鉄道はない。砂利道と聞いていたので4WDの車をチャーターした。その結果、旅費が高騰した。

州都ユジノサハリンスク(旧豊原)からウグレゴルスクまで356キロメートル、だいたい東京から名古屋ぐらいの距離だ。

酔い止め薬を飲んで、移動する。道中に通った砂利道も日本が切り開いたとのことだ。そして、ソ連侵攻後に戦火から逃げる住民たちもここを通過したと感じ、胸が締め付けられた。

恵須取町は島内最大級の産出量を誇った大平炭鉱があった。製紙工場が建設されて以降、移住者が殺到するようになった工業都市だ。昭和16年(1941年)には人口3万9000を数え、樺太庁があった豊原を超えて樺太最大の町となった。

それだけ栄えていた町にもかかわらず、資料や情報が樺太内で最も残っていない謎あふれる町だ。樺太の中でも恵須取は、ソ連軍から早い段階で攻撃されているが、あまりに激しい戦火で消されたのではないだろうか。

到着し、初めて工場目にしたときまさに「兵どもが夢の跡」だと感じた。

当時まだネットに情報が少なく、現物を現地で目にした。まずは身動きできず畏敬の念で震え立ち尽くした。

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