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実は不登校の子どもにも親にも問題はありません 多様な学びを提供できない行政と大人の責任

東洋経済オンライン / 2024年9月27日 12時0分

もちろん私は、「座学などすべて廃止して、興味のおもむくままに好きなことを子どもたちにやらせるべきだ」などという極端なことを言いたいのではありません。

教育とは、〝educate〞、すなわち「〝e(x)〞外に〝ducatus〞引き出す(ラテン語)」という意味ですから、すべてにおいて個体が異なる未成熟な人間の何かを引き出すには各々固有のやり方と場が必要であり、それらを豊かに提供することこそが最も必要なことです。

現実には、100人の子どもに100通りのやり方で対応するような教育システムは、数十年の時間をかけねば提供できないとしても、少なくとも大人でも気の合わない他人数人と同じオフィスで過ごすストレスに耐えられないのに、40人と何百時間も一緒にさせられて、毎日定時に同じ教室に行かされるようなことを避ける「学びの場」を複数種類は用意できるはずです。

かつて「学級が嫌い」になった大学教員の私

最初の一歩レベルのことですらできることはたくさんあります。

学びや心にストンと落ちる速度も契機も異なる多様な子どもたちに対して、どうして「同じ量、同じ課題、同じやり方」を強要するような宿題を出すのでしょうか?

自分の学びにおける「気づき」を知らせたい先生がどうしてこんなに少ないのでしょうか?

少子化になれば「夢の20人学級実現」と思っていたのに、どうして今「教員不足」によって、ハードワークに追い込まれた多くの教員のうつ病が発生しているのでしょうか?

私は、ある意味で学校の終着点である大学の教員ですが、中学校くらいから「学び」がしたくて「学級が嫌い」になった者として、大学は学びの場と時間を選択できる、相対的にストレスの低減された場所でした。「そこに到達するまでは耐えよ」と言われて、ギリギリで生きてきました。

しかし、それを21世紀の「1人1台ポケットにコンピューター(スマホ)をもって、大量の情報の選択とコミュニケーションを強いられる」ティーンズたちに要求するのは、大人の怠慢だと思うのです。

かつて「学校に行かないと惨めな人生が待っている」と脅された私は、そういう追い詰められたティーンズの最中、人間としての自然体を維持できるものと空間を自分で発見せざるを得ず、音楽と楽器に没頭しました。

文科省も認める「不登校の責任」とは

しかし、それはひたすら僥倖であったのです。それを可能とさせる諸条件がたまたまあったからです。親と生まれる地域と時代は選べません。

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