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男性遍歴多い「紫式部の娘」が最後に選んだ伴侶 母親とはまるで性格が真逆、長寿を全うした

東洋経済オンライン / 2024年9月29日 9時30分

紫式部ゆかりの京都・廬山寺(写真: sonda0112 / PIXTA)

NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたっている。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第38回は、紫式部の娘である大弐三位(だいにのさんみ)の生涯を解説する。

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紫式部と藤原宣孝の子として誕生

紫式部の娘・大弐三位(だいにのさんみ)がどんな生涯を送ったのかは、それほどよく知られていない。

【写真】恋愛経験も豊富だった大弐三位(藤原賢子)。写真は母・紫式部の歌碑。

のちに大弐三位と呼ばれる藤原賢子が生まれたのは、長保元(999)年か、あるいは、その翌年とされている。いずれにしても、父親の記憶はほとんどなかったことだろう。父の藤原宣孝は長保3(1001)年に病でこの世を去っている。

結婚してわずか2年半で夫と死別した母の式部は、呆然としたらしい。その頃の心情として『紫式部日記』にこんなふうに綴っている。

「心に思うのは『いったいこれからどうなってしまうのだろう』と、そのことばかり。将来の心細さはどうしようもなかった」

(いかにやいかにとばかり、行く末の心細さはやるかたなきもの)

せめて気晴らしにと式部は、物語の創作を始めたようだ。これが『源氏物語』の誕生につながったと考えられる。

そんなとき、式部の人生に転機が訪れた。寛弘2(1005)年、あるいは、寛弘3(1006)年の年末に、一条天皇の中宮・彰子のもとに女房として仕えることになったのだ。式部が30代前半の頃のことである。

『紫式部日記』を読めば、式部が主人である彰子や道長、そして一条天皇に尊敬の念を抱きながら、宮仕えを日々行っていたことがよくわかる。

だが、『紫式部日記』の後半部は「女房とはいかにあるべきか」が説かれており、「日記」というより「指南書」の性格が強くなってくる。

そのことから、おそらく後半は「これから宮仕えをする特定の人物」に向けて書かれたのではないか、とも言われている。それは、娘の賢子(大弐三位)である。

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