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道長記した「御堂関白記」が"世界に誇れる"凄い訳 道長自身は後世に残すつもりはなかったが…

東洋経済オンライン / 2024年10月26日 8時10分

京都御所(写真: けんじ / PIXTA)

今年の大河ドラマ『光る君へ』は、紫式部が主人公。主役を吉高由里子さんが務めています。今回は道長が記した「御堂関白記」を紹介します。

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道長が継続的に書き続けた日記

藤原道長は、995年頃から日記をつけていたと言われています。途中、中断を挟みながらも、1004年以降は継続的に書き続けていました。

【写真】道長が晩年に建立した法成寺。いまも跡地が残っている。

この道長の日記は『御堂関白記』と呼ばれています(998年から1021年、道長33歳から56歳までの日記が現存しています)。

日記の名称の由来は、道長が晩年に法成寺(平安時代を代表する寺院でしたが、何度か火災にあい、鎌倉時代末期に廃絶)を建立したことで、自身が「御堂殿」「御堂関白殿」と呼ばれたことによります。

今では『御堂関白記』として広く知られていますが、「入道殿御暦」「入道殿御日記」「御堂御日記」「御堂御暦」「御堂御暦記」などと呼ばれたこともありました。

これらの名称のなかに「御暦」との言葉があります。これは「1年分を、春夏を上、秋冬を下とした2巻からなる具注暦の隙間に書いた暦記が36巻存在」したと考えられていることに関連するものでしょう。

この具注暦の日付と日付の空白部分に、道長は日記をつけていました。

道長は空白部分に、3行から4行ほどの文章を書き記しています。そこに書ききれない場合は、紙の裏側へと続きます。

日記のなかには「この日記は披露(公に発表すること)するべきではない。早く破却するべきものだ」(1010年)との一文もあります。道長は、自分の日記を後世の子孫に残そうとは考えてはいなかったのです。

朝廷で行われる数々の仕事や儀式。それらは、作法や手順が事細かに決められていました。そして、儀式や仕事を過去(昔)の手順通りに、間違うことなく行うことが重視されていました。

先例(以前からの慣例)通りに儀式などを進めることが、朝廷ではよしとされてきたのです。家柄により、朝廷での地位が決まりますし、その地位によって担当できる儀式(仕事)も異なります。

そのため、貴族のなかには、自分の子孫のために日記をつけていました。子孫がスムーズに仕事ができるようにするためです(例えば、平安時代中期の公卿・藤原師輔は、日記をつけておくことを子孫に言い残しています)。

しかし、道長はそうではなく、備忘録として日記をつけていたのでした。ここが『小右記』(藤原実資の日記)や『権記』(藤原行成の日記)と、道長の日記の大きな違いでした。

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