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競争社会の優勝劣敗は「自己責任」というフェイク 責任とは「失敗の後始末をすること」ではない

東洋経済オンライン / 2024年10月28日 13時0分

「自己責任」などというものが問題になるのは、自分が「自由に選択することができた場合」だけなのであって、結果に至るまで「そのような条件を強いられざるをえなかった」、あるいは「自由に選択しろと〝限定された選択肢〞を無理に押しつけられた」場合には、問う必要も意味もないものです。

単体では弱くて卑小なる人間が、それでも己と他者の力を信じ、多くのチャンスを得て、失敗したり間違えたりしながら成長していくための胆力とポジティブな力を引き出させる工夫を「教育」と呼びます。

そのために不可欠なのは、徹底して「自分を重んずる人間になる」ために、「次のチャンスを提供し」「適合しない競争やステージとは別の選択肢を用意する」という3つです。

「公平」や「平等」は十分に用意されていない

にもかかわらず、今日蔓延している自己責任論は、成長すべき者たちに一番必要なこれらの3つの基盤を、ことごとく奪っていくのです。人間は、他者からの肯定的評価なしには自分を自律的に支えることはできません。そして、小さく卑小なる、世界に対して不完全情報しか持ち得ない人間は必ず失敗するため、とにかくセカンドチャンスが必要です。

そして、同時に「どうしても限界が来たら一度ゲームを降りる」ための階段の踊り場が不可欠なのです。ちまたの自己責任論は、評価は冷徹な競争の「結果」だけだとし、だから公平だと強弁し、負けた者は次の勝負の段取りすら自分で調達せよと追い詰め、そしてゲームを降りた者たちを市場の敗者として、社会のメンバーから排除します。

百万歩譲って、「公平な競争なら仕方がない」としても、この世の社会経済的競争は、基本的な「公平」や「平等」を十分に用意していません。

教育を受ける豊かな経済基盤は、平等に配分されていません。直感的な能力や豊穣な想像力に長けていても、その反面、合理的かつ迅速な情報処理が苦手な者たちを適切に評価する学力基準が用意されていません。

その時代に受け入れられやすい容姿は、自分では選択できません。離婚や死別というアクシデントの責任は、子どもにはありません。未知のウイルスで肉体がむしばまれる者も無傷の者もいます。難病や障害をもっていることは自分にも起こりうる不条理です。これらはすべて、自由に選択できなかったことです。

善処する方法を考えて決断する諸条件が、きちんと用意されていなかった者たちにとっては、それが理由でうまくいかなかったら、それは彼らの自己責任ではありません。

無念さと無力さは敗者の言い訳ではない

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