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競争社会の優勝劣敗は「自己責任」というフェイク 責任とは「失敗の後始末をすること」ではない

東洋経済オンライン / 2024年10月28日 13時0分

自己責任論は、そういう「選択できなかったこと」を前にしてたたずんでいる人間の無念さや無力さなどをすべて「敗者の言い訳」と排除して、なおも「そうなることを避けるための努力が足りなかったのだ」と追いかけて来て切り捨てます。

なんと傲慢な理屈なのでしょう。自分の努力によってすべてを成し遂げたと結果から逆算して、人の善意や運にも恵まれたことを忘れる、自分に対しても他人に対しても浅はかな考え方です。そしてそれを「この世の冷徹な原理だ」とします。最悪のフェイクです。

明日不運にも破産したり、病気になったりしても、そう言えるのでしょうか?

国境を越えてヒトもモノもカネも行き来する、80億人もの人がいるこの星で起こる経済の動きなど、誰一人として自覚的にコントロールなどできません。必ず富の分配には歪みが生じます。

想像できないほどの数の遺伝子が行き交ってどんな人間が生まれるかは誰にもわかりません。遺伝子の偶然のミスプリントで生まれるがん細胞がその後どうなるかなど、世界最高の医学でも解明できません。離れていく他者の心はお金ではつなぎ止められません。

人間は不完全情報の下で生きている以上、森羅万象に責任など取れるわけがないのです。

格差の構造を放置・堅持しようとしている者

しかしそれは、すべての人間が責任から自由という意味ではありません。責任を取るべき者とは、巨大で複雑なシステムを生きぬく条件が適切にそろわないために不当な扱いを受けているおびただしい数の人たちの命とエネルギーを搾取して、運と不運をせこくかぎ分けて、いろいろと諦めねばならない人たちを生み出す「格差の構造」を放置し堅持せんとしている者たちです。

勝者のためのゲームのルールをつくる者(市場の勝者)と、そしてそれを修正しようともしない監視者(政治家)です。

とりわけ、小さく弱く不利な立場で生きている人々を動員して、彼らの命と引き換えに壮大な社会資源の動員を行い、国民の人生と生活を左右するような大きな決断(戦争!)をする統治エリートたちの責任は、絶対に放置してはなりません。

病と不運で経済が立ち行かなくなった者と、満州国をでっち上げた者とを、同じ「自己責任」でくくってよいはずがありません。言わずもがなの話です。

岡田 憲治:政治学者/専修大学法学部教授

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