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路上ライブは「グレーな文化」として容認すべきか 「迷惑行為」「アーティストとしての表現」境界線

東洋経済オンライン / 2024年11月30日 8時51分

「表現する場所」としての路上

「イギリス、オーストラリアなど海外でもライセンスを取得し路上ライブをやってきたのですが、日本の路上文化の『グレーな感じ』がすごくいいなと思っているんです。ルールを決めすぎないというか。海外では、ライセンスはもちろん細かいルールがあったりと、大変なところもあります」

オーストラリアでも路上パフォーマンスのライセンスを取得し演奏していたが、あるとき、自分だけ音量が大きすぎると注意を受け半ば差別に近い形でライセンスを剝奪されたこともあるそうだ。

またそもそもライセンスの取得も難しく、1~2年待つということもあり簡単にはいかないそうだ。

それでもChapaさんが路上ライブにこだわる理由は、自身のアーティストとして音楽を表現するうえで、ストリートが大切な場所であるという位置づけからきている。

「日本でも海外でも、路上ライブをやっていると小さい子が立ち止まって嬉しそうに演奏を聴いてくれたりします。ライブハウスでは出会えないいろいろな人に聴いてもらえるんです。だからこそ、自分はこのストリートの文化を大事にしたいなと考えています」

もちろん、Chapaさんはライブハウスやイベント等でも演奏するアーティストである。

だが、ライブハウスにはない出会いが路上にはあり、偶然その場に居合わせた人々に自身の音楽を楽しんでもらおうという考えが根底にあるわけだ。

そもそも路上ライブはグレーなものなのだろうか。それは、路上ライブそのものは法的には明確に禁止されているものではないということだ。

取り締まりの対象となるのは道路交通法違反や地方公共団体による条例違反だろう。路上ライブそのものを禁止し罰する法律はない。だからこその「グレーな文化」であるといえる。

ここで、少し例を出すので想像してもらいたい。

かなり極端なたとえになるが、駅前の広場でひとり、アカペラで歌っていたとする。男性でも女性でもいい。それもかなりの美声だ。

音源も使わず、マイクもアンプも自己紹介のボードもない。取り立てて通行の邪魔にもなっていない。ただ、そこで歌声を披露している。

これも立派な路上ライブである。

はたして印象はどうだろうか?

もちろん不快だという人もいると思うが、大半は黙認し素通りするのではないだろうか。仮に通報されても歌うのをやめれば事なきを得るだろう。

つまり、迷惑行為とみなされない限りは、路上ライブは「グレーな行為」であるということである。

「アーティストの技量」により変わる「迷惑度」の印象

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