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一条天皇の最期「定子と彰子」誰に想いを残したか【再配信】 死ぬ間際に読んだ和歌にある「君」は誰なのか

東洋経済オンライン / 2024年12月12日 8時0分

道長にはとてもではないが、受け入れがたく、かつ、理解できない娘の要望だったに違いない。従来の方針通り、彰子の子であり、自分の孫である敦成親王を皇太子に据えさせた。彰子はそんな父・道長のことを「怨み奉られた」(『権記』)という。

随所に見られた彰子の細やかな心遣い

自分の子が厚遇されることを誰もが願ったこの時代に、彰子の思いやり深さは、特筆すべきことだろう。

彰子がどんな女性だったのか。それがわかる史料は乏しい。だが、残した和歌からも、柔らかな性格が伝わってくる。

彰子の出産から遡って3年前の寛弘2(1005)年10月に、敦康親王の石山詣が行われると、父の道長や母の倫子、祖母の穆子、妹の姸子が同行することになった。当時、17歳だった彰子は妹の姸子にあてて、こんな和歌を贈っている。

「人をのみ 思ひやるまにこのごろは 関に心の 越えぬ日ぞなき」

(あなたのことばかりに思いを馳せるうちに、心が逢坂の関を越えていかない日はないのです)

それから2年後の寛弘4(1007)年に、母の倫子が44歳で末妹の嬉子を出産すると、彰子は、子の将来の多幸と産婦の無病息災を祈る儀式「産養」を主催。白い織物衣と綾の産着などを母に贈って、道長を感動させた。

「中宮よりこのような贈物があるのは、めったにないことだ。かえって面目が施された。未だ家から立たれた皇后が、母のためにこのようなことをなさったことはない。百年来、聞いたことがない。以前の人は、親の老後に立后されたのである」

(『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』倉本一宏訳、講談社学術文庫より)

いずれの逸話も、まだ自身が身ごもる前のことであり、周囲から世継ぎのプレッシャーをかけられるなかでも、常に自分以外の誰かを気にかける、彰子の思いやり深さがよく伝わってくる。

その一方で『紫式部日記』では、式部から漢文を教えてもらいたがる彰子の様子が描かれている。彰子は唐の詩人・白居易の『白氏文集』をリクエストしたという。幼少期から漢文に触れて、側近からも「好文の賢皇」と評された一条天皇に、少しでも気にかけてもらいたいと、彰子は密かに日々心を砕いていたのだろう。

そんな彰子だから、24歳で夫の一条天皇を亡くしたときの悲しみは深かった。寛弘8(1011)年の出来事であり、一条天皇は32歳でその生涯を閉じている。

藤原行成の『権記』によると、一条天皇がいまわの際で、力を振り絞って最後に詠んだのは、こんな和歌だった。

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