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「暗記勉強は無意味」では全くないと断言できる訳 「学び」を重視し「勉強」を軽視する風潮に違和感

東洋経済オンライン / 2024年12月25日 7時50分

以前、小学校の「哲学対話」に招かれて、授業のサポートをした際に痛感したのは、小学生たちに下手に議論をさせたところで、手持ちの少ない洋服でいかにオシャレするかを競うようなものにしかならないということでした。そして、その行きつく先は、いかにも社会適応的で常識的な議論でした。こういう議論の練習をしたところで、早期の「つまらない大人化」を進めるだけ、そんなふうに感じました。

僕が授業をサポートしたのは一般の公立校ではなく、果敢に新しい教育にチャレンジしている小中一貫の難関校です。その学校の生徒は、大人の意図に適応することに長けている子が多いと感じました。探究型学習に積極的な学校ですが、子どもたちがそこで身につけているのは、個性と呼ばれるような独特さとは無縁な、より高度な協調性と規範性でした。

新しい教育がさまざまな現場で試みられています。しかし、それらの多くが「新しさ」という甘い蜜に引き寄せられた向こう見ずなやり方にすぎないと感じています。アクティブ・ラーニングは、かえって学力格差を拡げる懸念があることが昨今指摘され始めましたが、そんなことは現場にいる人間ならわかり切っていたことです。

杓子定規な学力的評価を捨てたうえでの振り切った改革であるのならまだ理解できるのですが、そうではなく、学力評価の価値観をそのままに、基礎力をないがしろにするような改革をしたわけですから、迷走しているとしか言いようがありません。

僕自身は、いまだ「学び」というよりは、暗記中心の「勉強」が必要だろうと感じています。なぜなら、暗記した言葉の一つひとつが、その人の思考の足掛かりになり、その結果、思考を深めることができるからです。そして、思考の足掛かりを生成AIなどに肩代わりさせることは、自分独特の生き方を手放すことになるのではないかと危惧しているからです。

勉強の価値を信じない人のなかには、「学校で習ったことなんて何も覚えていないから、意味がないよ」という人もいます。でも、そもそも大人は、自身の過去の勉強が現在どう役立っているかを認識できるほどの高い解像度で生きていないのです。

学校で『徒然草』や『平家物語』の冒頭文を音読したり暗唱したりしたことは、いまの自分に何の影響も与えていないと思うかもしれませんが、古めかしい文章を読み上げたそのときには、確かに自身の意識と身体が変化して、その変化の後に各々の人生を積み上げてきたわけです。これは案外重い事実なのですが、それを意識しながら生きている大人はほとんどいないでしょう。

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