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「僕はモラハラ夫」…本人が遂に悟るに至った経緯【再配信】 「よかれ」と思って妻にしたことは暴力だった(前編)

東洋経済オンライン / 2025年1月29日 8時5分

――それも「暴力」なのですね。

そうです、暴力というのは「ケアの欠如」なんだと思います。僕は変容プロセスのなかで、さまざまな領域の専門書を読んできて、そういうふうに考えました。

僕がやっていたことは、ケアの真逆です。その人が持っている感覚や感情、考え方、そこから生み出される言動を、全部否定していた。本人が「私はあまりやりたくない」「これを生業にしたいとは思っていない」と言うのに対して、「あなたは天才なのだからこれをやるべき。こんなに才能を信じてもらって支援をされることを、嬉しく思うべき」と言っていた。

でも、他の人に「このように感じるべき」なんていうのは、その人の一番根本的な部分を否定している。それって「大切にしている」なんて全く言えないですよね。否定することで傷つけているんだ、と気付いたときに、「そうか、これが加害なんだ」と思いました。本質的に「ケアの欠如は、すべて暴力だ」と考えています。

――そう考えると「加害者」って遠くの誰かのことではないですね。私たちの多くが、気づかずに加害をしているかもしれない。そこから、どういう関係を目指したらいいのでしょう?

大事なことは2つあると思います。ひとつは「ケアし合える関係であること」。私には私の感じ方があって、相手には相手の感じ方がある。そこで、どちらかの感覚だけを尊重するのでなく、お互いにケアし合えるような関係をつくることです。

もうひとつ重要なのは「関係は終了していい」という前提で「いつでも終了できる関係をつくっていくこと」。これをしないこともケアの欠如=暴力にあたると思います。たとえば、妻が本当はキャリアを作りたがっているのに、夫が「子育ても家事もあるのに、できるのか」と言って仕事を辞めさせるようなケースも典型的な経済的暴力です。それは、相手を自分の経済力なしでは生きていけない状態にすること、すなわち関係を終了しづらくさせることだからです。

――「これまでしてきたことが暴力だった」と気付いてから、中川さんはどう変わったんですか?

本当に雷に打たれたような感じだったんですよね。「えー! これが暴力!」となって、いろんなことがわかってきた。僕は理屈っぽい人間なので、理屈さえわかれば、自分の置かれた状況を分析して、どうしていくべきか想像できました。

妻への愛ではなく、支配しようとしていた

まず「これが暴力なのだとすると、自分は親に暴力を振るわれてきたんだな」と思いました。これは「愛情があるかどうか」といった話とは別次元の話です。愛情があっても、人は暴力を振るいます。僕自身、妻を愛しているつもりで傷つけ続けてきたので、心からそう思います。

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