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「一揆」と「SNS」歴史作家が語る驚きの"共通原理" 意図的に自分の名前を広めようとした首謀者も

東洋経済オンライン / 2025年1月31日 16時0分

残党にまで追っ手がかかるというのは、土一揆の例としては結構珍しくて、だいたい京都からいなくなればいいという感じの対応が普通です。

では、なぜそこまで執拗に追いかけたかというと、蓮田兵衛の名前が有名になり過ぎてしまったので、きちんとけじめをつけないといけなかったのだと思います。

蓮田兵衛は、自分に最終的に追っ手がかかるということまでわかっていて、あえて自分の名を広めるという描き方にうなりました。

垣根 一揆の主体というのは、いわゆる農民ですね。しかし農民とはつまり、その土地の実質的な地主なのです。

その上にいる人たち、つまり守護などの支配層は、税の徴収権を持っているだけです。それが通常の土一揆で農民を追捕(ついぶ)したり処罰するというのは、なかなか難しいだろうという考えが一方ではあります。

他方、蓮田のような根無し草のような牢人なら、幕府側も徹底的に探索・処罰しやすかったのでは、との考えもありました。

呉座 そうですね。百姓たちが土一揆を起こして借金を棒引きさせる徳政を要求する論拠はそこです。本来は自分たちが耕している自分たちの土地なので、借金を返せないからといって土倉(どそう)などに奪われるのは不当だということです。

根っこでつながっている「土一揆」と「足軽」

垣根 ポイントはそこですね。しかし、『室町無頼』を書くとき、私がフォーカスを当てたのは農民ではなくて、京都の牢人社会でした。畿内で最も貧苦にあえいでいたのは、都市部に流入してきた牢人階層だろうと思ったんです。

彼らはとにかく飢えていました。皆が平等に飢えているのならともかく、現実的には、あの狭い京の中でとても富んでいる階層もいます。

ただし、その飢えた牢人集団は、自分たちがそうした貧富の構造を覆してやるなどと考えていたのではなく、後のことは知らないけど、とりあえずそのシステムのようなものに反抗してみようという感覚だったのではないか、と。

ようは、一揆を首謀した蓮田兵衛にしても、史上初めて足軽を組織した骨皮道賢(ほねかわどうけん)にしても、そのような社会的状況が必然的につくり上げた人物なのだろうと思います。

当時の京都は人口約10万人です。骨皮道賢がいつ市中警護役に就いたかわからないのですが、資料によると、1460年には渋谷口(しぶたにくち)の強盗を鎮圧しているという記録があります。その2年後に蓮田兵衛の寛正の一揆が起こっています。

呉座 そうですね。

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