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「松平定信が激怒した」江戸の創作者の悲惨な最期 重三郎とも仕事をした喜三二と春町だったが

東洋経済オンライン / 2025年2月9日 9時30分

この喜三二なる人物、いったい何者なのだろうか。

朋誠堂喜三二と恋川春町のコンビ誕生

朋誠堂喜三二は享保20(1735)年に寄合衆家臣の西村久義の3男として生まれた。14歳で秋田藩士・平沢家に養子入りしており、本名を「平沢常富」という。

江戸藩邸の「留守居役」という他藩と密に連絡をとる職に就いていたことから、自然と足は人の集まる場所へと向かったらしい。20代には自ら「宝暦の色男」と呼ぶほど吉原に通った。

社交場に必須の教養でもあった俳句の名手で、俳諧人としても名を知られていた喜三二。安永2(1773)年に洒落本『当世風俗通』を出して文壇デビューを果たす。以後は、戯作者として活躍することになる。

またこの『当世風俗通』によって、クリエーターがさらにもう一人、デビューしている。挿絵を担当した恋川春町(こいかわ・はるまち)である。

このときは無記名だったが、2年後の安永4(1775)年に『金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』の作画を担当したことで、春町の名は広く知られることになる。

鱗形屋孫兵衛が発刊した『金々先生栄花夢』は、子ども向けの草双紙のスタイルをとりながら、ウィットに富んだ大人の笑いをちりばめるというこれまでにない戯作で、大きな反響を呼んだ。『金々先生栄花夢』の表紙が黄色だったことから、これ以後の草双紙は「黄表紙」と呼ばれ、春町はそのパイオニアとなったのである。

春町は喜三二と同じく留守居役だったということもあり、2人は互いによい刺激を与えあう関係になったようだ。

安永6(1777)年には鱗形屋孫兵衛から、『親敵討腹鞁』『女嫌変豆男』『珍献立曽我』『南陀羅法師柿種』『鼻峰高慢男』『桃太郎後日噺』の6点の黄表紙が、「作:朋誠堂喜三二、絵:恋川春町」で刊行されることになる。

人気作家コンビを鱗形屋から引き継いだ蔦重

そんな喜三二が重三郎と仕事をするようになったのも、安永6年のことだ。3月に重三郎が華道書『手毎(ごと)の清水』を発刊すると、その序文とあとがきを喜三二が引き受けている。

また8月には絵本仕立てで吉原を番付した『明月余情』(めいげつよじょう)が、重三郎によって発刊され、その序文も喜三二が寄稿している。その後、12月に重三郎が出版し、喜三二によって編まれたのが、先に紹介した『娼妃地理記』である。

いろいろな場面で喜三二の力を借りているうちに、重三郎は手ごたえをつかんだのだろう。安永9(1780)年には、黄表紙の刊行をスタートさせることになる。その背景には、鱗形屋孫兵衛が重板事件で処罰されたことがあった。

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