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「松平定信が激怒した」江戸の創作者の悲惨な最期 重三郎とも仕事をした喜三二と春町だったが

東洋経済オンライン / 2025年2月9日 9時30分

当時、同じ出版物をタイトルだけ変えて出すことは「重板」として禁じられていたが、鱗形屋の使用人がその禁を犯す。鱗形屋が訴えられて、罰金を払うことになった。これが安永4(1775)年5月のことで、重三郎はこの好機を見逃さずに、吉原細見の発刊に乗り出すことになる(参照『蔦屋重三郎「吉原ガイドブック」独占した凄い才能』)。

どうもそこから鱗形屋の経営が傾き始めたらしい。資金難によって黄表紙の刊行が難しくなってしまうと、このときもまた重三郎が「機を見るに敏」とばかりにチャンスをものにしている。

安永9(1780)年に重三郎は『鐘入七人化粧』(かねいりしちにんげしょう)、『廓花扇観世水』(くるわのはなおうぎかんぜみず)、『竜都四国噂』(たつのみやこしこくうわさ)など、喜三二作の黄表紙をたて続けに刊行した。

また、天明3(1783)年からは恋川春町とも交流し、『猿蟹遠昔噺』(さるかにとおいむかしばなし)などヒット作を連発。鱗形屋に代わって、朋誠堂喜三二と恋川春町という人気作家を抱え込むことに、重三郎は成功している。

二人のベストセラーが老中を怒らせたワケ

武士でありながら、戯作者としての才能を存分に開花させた、朋誠堂喜三二と恋川春町。重三郎も二人の活躍に一役買うかたちとなったが、盟友同士で刺激し合って創作に励んだことが、思わぬ方向へと転がっていく。

天明8(1788)年、重三郎は喜三二作の『文武二道万石通』(ぶんぶにどうまんごくとおし)を出版すると、コミカルな内容が大人気となり、ベストセラーとなった。すると、負けていられるかとばかりに、今度は春町が意欲作に取り組む。

翌年の寛政元(1789)年に重三郎によって世に放たれたのが、春町の『鸚鵡返文武二道』(おうむがえしぶんぶのふたみち)。これもまた世間で大評判となった。重三郎のプロデュースが二人の才能を存分に引き出したといえよう。

ところが、両作には大きな問題があった。それはともに、田沼意次に代わって老中となった松平定信の政策を茶化しているということだ。

喜三二作の『文武二道万石通』は、鎌倉時代にダラダラしていた武士が、突然の文武奨励の政策に慌てふためくというもの。春町の『鸚鵡返文武二道』にいたっては定信が書いた『鸚鵡言』を茶化した内容だった。

天明7(1787)年に老中首座となり、これから政策を推進していこうとした定信からすれば、出ばなをくじかれたような思いがしたことだろう。両作品とも武芸と学問を奨励した自身の政策をからかったもので、黙ってはいられなかったようだ。

春町の悲惨な最期

喜三二は戯作の執筆を禁じられてしまい、春町は定信から出頭を命じられた。出頭には応じなかった春町だが、数カ月後に死去。死の原因はよくわかっていないが、主人に迷惑をかけるのを恐れて自殺したともいわれている。

人気作家の二人の作品を出せなくなったうえに、寛政2(1790)年には「出版統制令」も発布されて、追い詰められた重三郎。なんとか活路を見いだそうとして始めたのが「浮世絵の出版」だった。

【参考文献】
鈴木俊幸『蔦屋重三郎』 (平凡社新書)
鈴木俊幸監修『蔦屋重三郎 時代を変えた江戸の本屋』(平凡社)
倉本初夫『探訪・蔦屋重三郎 天明文化をリードした出版人』(れんが書房新社)
後藤一朗『田沼意次 その虚実』(清水書院)
藤田覚『田沼意次 御不審を蒙ること、身に覚えなし』(ミネルヴァ書房)
真山知幸『なにかと人間くさい徳川将軍』(彩図社)

真山 知幸:著述家

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