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「中東の近代化」日本との共通点で見えること 歴史を通して緊迫する中東情勢の今を考える

東洋経済オンライン / 2025年2月10日 16時0分

エジプト(写真: ネオンイオン / PIXTA)

今なお緊迫した状態が続いている中東情勢。かつてヨルダンの日本国大使館で専門調査員を務め、現在日本女子大学教授の臼杵陽さんは、今の中東情勢の発端となった近代化の過程において、実は日本との共通点は少なくないと言います。それでは、何が中東と日本の分かれ目となったのでしょうか。臼杵さんの著書『日本人のための「中東」近現代史』から一部を抜粋、再編集してお届けします。

中東が遭遇した「黒船来航」

ナポレオンのエジプト遠征は、この地域の鎖国からの開国という意味で日本における黒船来航に相当する。リファーア・タフターウィー(1801~73)という思想家の名前は、ほとんどの読者が初めて聞くかと思われるが、啓蒙思想家としての彼の業績は福澤諭吉(1835~1901)とよく似ている。

【写真】『日本人のための「中東」近現代史』(臼杵陽)

タフターウィーは伝統的なイスラームの教育を受けており、エジプトのイスラーム学の最高峰であるアズハル大学という教育機関の出身である。そして19世紀初めのムハンマド・アリー総督の時代に、5年間フランスに留学している。

このムハンマド・アリー(1769~1849)という人物はアルバニア系商人の息子として現ギリシア領の港町カヴァラで生まれた。のちにオスマン帝国によってエジプトに派遣され、ナポレオン侵攻後の混乱を収めて、エジプト総督(在位1805~48)に就任して、富国強兵・殖産興業に基づくエジプトの近代化改革を行なった。

旧勢力のマムルークを一掃し、徴兵制に基づく近代的な軍隊を編成し、また、それまでの徴税請負制度(イルティザーム制と呼ばれている)を廃止して、土地を国有化して綿花栽培を行なうとともに大規模な灌漑設備を整えたのである。このような改革は明治維新に先立つものだった。

バラバラだった言葉の統一

日本においては明治維新後、それぞれの藩(地域)によって言葉が異なっていたので、今で言う標準語を作る事業が行なわれた。同じようなやり方で、タフターウィーは帰国後、アラビア語のアカデミーの責任者として、標準語制定の事業に取りかかる。

日本語の場合、東京方言と長州方言を混ぜたものを標準語としたが、エジプトの場合、結局うまく行かず、いわゆる書き言葉である正則アラビア語、今風に言えば標準アラビア語(フスハー)と方言(アンミーヤ)とは乖離したままである。日本ではその後、言文一致運動が起き、二葉亭四迷以来、小説はすべて口語体で書くという流れになった。

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