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「中東の近代化」日本との共通点で見えること 歴史を通して緊迫する中東情勢の今を考える

東洋経済オンライン / 2025年2月10日 16時0分

エジプトでも同じような試みが行なわれたが、アラビア文字では方言の音をうまく表現できないこともあり、失敗した。ただ、アブドゥルラフマーン・シャルカーウィー(1920~87)というエジプト人小説家は、1954年に出版した小説『大地』をエジプト方言で書くという試みを行なった。

タフターウィーは、改革の初期の段階を担った。福澤の場合、直訳的なやり方ではなく非常に巧みに日本語に置き換え、日本の文脈に合わせたかたちでヨーロッパの思想を紹介した。

通常、このような旧弊打破の革新的な世俗思想や活動を啓蒙主義、あるいは啓蒙思想と呼んでいる。タフターウィーも、数多くの書籍をフランス語からアラビア語に翻訳した。その数たるや、1000以上という凄まじいものだ。エジプトにおけるヨーロッパ文明の受容の窓口となった最も代表的な人物である。

イスラーム自身が変わっていき、近代ヨーロッパの考え方(ヨーロッパにおける合理主義的な発想、理性と信仰を調和するような議論等)を受容できるような素地を作る役割を果たしたということで、タフターウィーは「近代主義者」と呼ばれている。

一般的に『エジプト誌』(Description de l’Égypte:1809~22年にわたって刊行)と言われている、イラストがたくさん載った調査報告書がある。たしかにフランスはエジプトに遠征して一時期占領したが、その際、200~300人程の学者を一緒に連れて行き、徹底的な調査を行なっている。

その記録である『エジプト誌』は、未だカメラ等で写真を残す手段がない時期に、すべて手描きでエジプトの自然から人間の習慣、風景等、ありとあらゆるものを当時の博物学的観点から図像として残したことで大変貴重である。

エジプトの植物や動物も徹底的に調査しており、さらには建物や風景、そして風俗・習慣に至るまで描写して記録を残している。エジプト人自身がそのような記録を残していないので、この調査報告書は、エジプト人自身にとっても、19世紀初頭のエジプトがどのようなものであったかを知る貴重な資料なのである。

なお、この調査で最もよく知られている発見がロゼッタ・ストーンであるが、この貴重な資料はフランスに持ち帰られ、その後、ヒエログリフ(神聖文字)、デモティック(民衆文字)、ギリシア文字の3種類の文字で刻まれた碑文はジャン゠フランソワ・シャンポリオン(1790~1832年)によって解読された。

西洋人による詳細な調査

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