1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. ライフ
  4. ライフ総合

第二次世界大戦後、アメリカ占領下に置かれる日本…米ソの「冷戦」に影響を受けながらも、経済的自立を目指す過程に迫る【歴史】

THE GOLD ONLINE(ゴールドオンライン) / 2024年3月12日 11時15分

写真

(※写真はイメージです/PIXTA)

第二次世界大戦後、アメリカとソ連による二大陣営が対立し、世界大戦は起きなくても軍事的な緊張が続く冷戦がはじまりました。冷戦が東アジアに波及し、アメリカ占領下で戦後の日本経済はいったいどのように復興していったのかみていきましょう。『大人の教養 面白いほどわかる日本史』(KADOKAWA)著者で、有名予備校講師の山中裕典氏が、1940年代について解説します。

冷戦の拡大と占領政策の転換

第二次世界大戦が終わった直後、国際連盟に代わる新しい国際平和維持機関として国際連合が設立され(1945.10)、ニューヨークに本部が置かれましたが、戦勝国による協調体制がその本質でした(“United Nations”は「連合国」という意味)。そして、安全保障理事会を構成する米・英・仏・ソ・中(国民政府)の常任理事国は拒否権を持ち、経済制裁や軍事行動もできる強力な権限で世界大戦の再発を防ぎ、国際紛争を解決することになりました。

一方、大戦後の世界では、アメリカ中心の「西側」(資本主義・自由主義陣営、西ヨーロッパなど)と、ソ連中心の「東側」(社会主義陣営、東ヨーロッパなど)の二大陣営が形成され、政治・経済・イデオロギー(理念)の面で争うようになりました。この情勢は核兵器の保有を伴い、世界大戦は起きなくても軍事的な緊張が続く、という意味で「冷たい戦争(冷戦)」と呼ばれました。

戦後の日本領土

ソ連はヤルタ協定に基づき対日参戦したのち、満州・朝鮮に侵入し、南樺太・千島列島を占領しました。満州国は崩壊し、満州はソ連軍が占領して、のち中国へ返還されました。朝鮮は、カイロ宣言では日本から独立すると定められていましたが、北部がソ連軍に占領され南部はアメリカ軍に占領されました。一方、ポツダム宣言を受諾した日本は、台湾を中国へ返還しました。

東アジアに波及していった冷戦

南北に分割占領された朝鮮は、冷戦が激化するなかで統一されないまま、朝鮮南部に大韓民国(韓国、李承晩大統領)が建国され(1948)、朝鮮北部に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮、金日成首相)が建国されました(1948)。冷戦の構造は、朝鮮の分断独立という形で波及したのです。

日中戦争に勝利した中国では、国民党と共産党の内戦が再燃しましたが、農村に支持を広げた共産党が内戦に勝利し、北京で中華人民共和国(毛沢東主席)の建国を宣言しました(1949)。一方、敗北した国民党は台湾へ逃れ、中華民国政府(蔣介石総統)を存続させました。中華人民共和国は「東側」となり多数の国に承認されたのに対し、アメリカは中華民国政府を中国の正式代表としたため、中国政府の地位にも冷戦の構造が持ち込まれました

敗戦直後の日本経済と生活

空襲で工業都市が壊滅し、工業生産力が激減しました。また、海外からの復員(兵士)・引揚げ(民間人)は人口急増による食糧不足を生み遅配欠配が続くなか、人びとは農村への買出し闇市での闇買いで生き残ろうとしました。

こうした物資不足に加え、戦争の事後処理のために通貨の発行量を増やしたことで貨幣価値が下がり、激しいインフレーションが生じました。

猛烈なインフレーションに対して政府の対応

〔幣原内閣〕は金融緊急措置令(1946)で、銀行預金の引出しを禁じる預金封鎖と、旧円の流通を禁じて強制預金させる新円切替を実施し、さらに新円引出しの上限金額を設定しました。貨幣流通量を減らして価値を上昇させ、物価を下げようとしたのです。しかし、インフレ抑制の効果は一時的でした。

〔第1次吉田内閣〕のときから傾斜生産方式が実行され、石炭業・鉄鋼業へ資金や資材を集中的に傾斜配分しました。生産回復で物資供給を増やし、物価を下げようとしたのです。しかし、復興金融金庫から産業への融資が増えると、貨幣流通量が増えて価値が下落し、物価が上昇しました(復金インフレ)。

戦後展開していった労働運動

労働者の権利が保障されると労働運動が高揚し(メーデーの復活、総同盟[右派]と産別会議[左派、共産党が指導]の結成)、官公庁労働者がまとまり吉田内閣打倒などを掲げた全国一斉のゼネラル・ストライキ(二・一ゼネスト1947)が計画されましたが、GHQの指令で実行前日に中止されました。

冷戦が東アジアに波及するなか、アメリカは占領政策を転換し、労働者の実力行使による政権奪取を抑止しました。GHQの指令で〔芦田内閣〕は政令201号を発し、のち国家公務員法が改正されて公務員は争議権を失いました。

最終的に収束したインフレーション

アメリカは、日本経済の自立を促し、「西側」の一員として東アジアにおける社会主義勢力の拡大に対抗させようとしました。ロイヤル陸軍長官は、日本を東アジアにおける「反共の防壁(共産主義拡大を防ぐ拠点)」にするべきだと演説し、GHQは〔第2次吉田内閣〕に対して経済安定九原則(1948)の実行を命じました。予算均衡や徴税強化など総需要の減少でデフレを生じさせ、輸出拡大で日本経済を自立させる狙いがありました。

まず、来日した銀行家ドッジの指示のもとで〔第3次吉田内閣〕がドッジ=ライン(1949)を実施し、赤字がゼロになるように歳出を減らす超均衡予算を作成しました。さらに、貿易品目ごとに異なった複数為替レートをやめ、すべての貿易品に適用する単一為替レートを採用し、そこに1ドル=360円固定相場を導入して、輸出の安定を図りました。また、来日した大学教授シャウプらの勧告に基づくシャウプ税制改革では、直接税中心主義(所得税の累進課税方式など)が採用されました。

経済安定九原則で生じたデフレにより、敗戦直後からのインフレは収まりましたが、歳出削減やデフレは官公庁や企業の人員整理を生み、労働運動が激化しました。しかし、国鉄の謀略事件(下山事件・三鷹事件・松川事件)が相次ぎ(1949)、国鉄労働組合や共産党が疑いをかけられ、労働運動は打撃を受けました。

山中 裕典

河合塾/東進ハイスクール・東進衛星予備校

講師

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください