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「走る修行僧」瀬古利彦、「おっぱっぴー」小島よしお、優勝を「アレ」と呼ぶ岡田監督…卒業生が多彩すぎる「早稲田大学」。創設者もなかなかに“濃かった”件

THE GOLD ONLINE(ゴールドオンライン) / 2024年5月7日 8時0分

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SNSでも話題になった大隈重信の自筆(画像:国立公文書館デジタルアーカイブ『大日本帝国憲法』〔https://www.digital.archives.go.jp/gallery/0000000001,CC-BY4.0〕をトリミングのうえ使用)

なぜお金のジェスチャーは“OK”なのか? なぜ始球式では“空振り”するのか? なぜ早稲田大学は中国人留学生が多いのか? これらの理由はすべて、早稲田大学の創設者であり、かつての内閣総理大臣でもある「大隈重信」にあります。歴代総理の偉業・珍業を知れば、日本の“歴史”と“今”が見えてきます。伊藤賀一氏の著書『アイム総理 歴代101代64人の内閣総理大臣がおもしろいほどよくわかる本』(KADOKAWA)より一部を抜粋し、紹介します。

<前回記事> 【実話】愛人が掃いて捨てるほどいたから、あだ名は「ホウキ」。日本の初代総理の“濃すぎる素顔”

※表記年齢は数え年で統一し、没年齢は、実年齢表記としています。

“熊”じゃないのに「ビッグベア」、大隈重信

【就任の経緯】

地租増徴をはかる第三次伊藤博文内閣に対し、反対する板垣退助の自由党と大隈重信の進歩党が合同。議会で圧倒的多数を誇る憲政党が結成されたことで初の政党内閣(大隈は衆議院議員ではないので「本格的」ではない)が成立。首相・外相に大隈、内相に板垣を擁し「隈板(わいはん)内閣」と呼ばれた。肥前藩出身の大隈は薩長藩閥ではないが、語学力や実務能力、押しの強さや不屈の精神でのし上がった。「何でもあり」の楽天家で節操のない部分もあるが、「薩長・軍部でもなく党人でもなく首相を任せられる人物」として元老たちに選ばれた、第二次内閣時の国民的人気は前代未聞。

【就任時の年齢】

第一次内閣60歳、第二次76歳(退任時の78歳6ヵ月は最高齢記録)

【退陣の理由】

第一次内閣⇒尾崎行雄文相による舌禍(ぜっか)「共和演説事件」を契機とした憲政党内の派閥争いにより約4ヵ月で崩壊。党は憲政党(板垣退助・星亨〔とおる〕らの旧自由党系)と憲政本党(大隈重信・犬養毅〔つよし〕らの旧進歩党系)に分裂。

第二次内閣⇒第一次世界大戦中、中華民国に『二十一ヵ条の要求』を叩きつける与党・立憲同志会総裁でもある加藤高明(たかあき)外相の強硬外交を放置し、元老(山県有朋〔やまがたありとも〕・松方正義〔まさよし〕ら)の反発を生む。

【キャッチフレーズ】

1. 「在野の精神」(下野後に首相や各大臣を歴任したが“元老”は固辞)

2. 「人生125歳説」(早稲田大学大隈講堂の高さは125尺〔38m〕)

3. 「東西文明の調和」「支那(シナ)保全論」(理想主義者)

※大量の留学生を受け入れるなど日中友好に尽力したので、中国では大隈や早稲田の知名度は驚くほど高い。

【生没年】

1838〔天保9〕年2月16日〜1922年1月10日(83歳没)  肥前藩では、佐野常民(つねたみ)の15歳下・副島種臣(たねおみ)の10歳下・大木喬任(たかとう)の6歳下、江藤新平の4歳下と最年少の人材。井上馨(いのうえかおる。長州)と松方正義(薩摩)の3歳下で山県有朋(長州)は同い年。黒田清隆(薩摩)の2歳上・伊藤博文(長州)の3歳上。

【出生】

佐賀県(肥前国〔ひぜんのくに〕)出身  佐賀市で、肥前藩の上級武士の長男に生まれる。大隈家は菅原道真の子孫とされる。幼名は八太郎(はちたろう)。12歳で父を亡くす。母の三井子(みいこ)は可愛い名前だが気合満点の女丈夫。

何でも学んだ大隈重信

【学び】

佐賀藩の藩校弘道館初級の外生寮や私塾で儒学を学ぶ(6歳)→内生寮に進級(16歳、同級生中最速)→朱子学偏重・藩至上主義の教育に対し改革を訴え退学(17歳、私塾で国学も学ぶ)→佐賀藩蘭学寮で洋学を学ぶ(18歳)→蘭学寮が藩校に吸収され教授に就任(23歳、藩主にオランダ憲法を進講しつつ英学を学び始める)→長崎の蕃学稽古所で教頭格として英語を講義(27歳、副島種臣とともに校長のフルベッキから英語・キリスト教・政治学・法学・数学を学ぶ)→1867年、副島とともに脱藩、京都で15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)に大政奉還(たいせいほうかん)進言を試み捕縛(ほばく)され送還(29歳)。

【キャリア】

外国事務局判事(30歳、浦上〔うらかみ〕信徒弾圧事件でのイギリス公使パークスとの堂々たる交渉で名を上げる)→会計官副知事を兼務のち大蔵大輔(おおくらたいふ。31歳)→参議(32歳)→岩倉使節団派遣を提案(33歳、師のフルベッキの発案だが大隈は行けず留守政府の監視役に)→1873年、内務卿となった大久保利通の後をうけ大蔵卿(おおくらきょう。35歳、インフレ財政〔積極財政〕を展開し工部卿伊藤博文とともに大久保政権を支える)→博覧会事務局総裁を兼務(36歳)→1881年、明治十四年の政変で参議を罷免(ひめん)され下野(43歳)→1882年、立憲改進党を設立し総理(44歳、漸進〔ぜんしん〕的な民権派政党)→閑職(かんしょく)にあった黒田清隆と和解(45歳)→1884年、副総理の河野敏鎌(こうのとがま)とともに立憲改進党を脱党(46歳、党そのものは巧妙に延命)→

…→1886年、旧自由党の星亨を中心に大同団結運動スタート(48歳、大隈はあまり協力せず)→1888年、第一次伊藤内閣の外務大臣で初入閣(50歳、黒田内閣でも外相に留任)→不平等条約改正交渉中に外務省門前で爆弾テロに遭い重傷を負う(51歳、外相を依願免官となり枢密顧問官)→1890年、初の衆議院総選挙で立憲改進党は300議席中41議席獲得(52歳、立憲自由党は130議席)→立憲改進党に復帰(53歳)→1896年、立憲改進党を中心に5党派が合同し進歩党を結成、第二次松方内閣の外相として入閣(58歳、「松隈〔しょうわい〕内閣」)→農商務大臣を兼任するも松方と決裂し辞任(59歳)→

…→1898年、板垣退助の自由党と合同し憲政党結成→初の政党内閣として第一次内閣組閣→約4ヵ月で瓦解(がかい)し憲政党(旧自由党)と憲政本党(旧進歩党)に分裂(60歳、「隈板内閣」)→1900年、立憲政友会(伊藤系官僚+憲政党)結成に対抗し憲政本党総理(62歳)→1907年、憲政本党総理の座を降ろされ政界を引退し早稲田大学総長(69歳、『告別演説』が新聞報道され同情もあり人気沸騰)→1914年、政界復帰し第二次内閣組閣(76歳、首相と内相のち外相も一時兼任、与党は加藤高明外相率いる立憲同志会)→同年、第一次世界大戦開戦・参戦→1916年、総辞職し再度政界引退(78歳、侯爵・貴族院議員)→1922年、死去後「国民葬」(83歳)

【学校設立】

1882年、東京専門学校(のちの早稲田大学)設立。「進取の精神」「学の独立(日本語による速成教育&政治権力からの独立)」を謳い、同年設立の立憲改進党とは無関係を貫く。初代校長は婿養子の大隈英麿(ひでまろ)だが創立者は実質的に小野梓(あずさ)、のち中心となったのも高田早苗(たかたさなえ)らで、大隈自身は1907年の政界引退までノータッチ。

大隈重信の人間関係

【ライバル】

→長州藩の2名  伊藤博文(互いに認め合い晩年は仲が良かった。暗殺の一報を聞いた大隈は大泣きし食事も喉を通らなかった)、井上馨(伊藤の親友だが大隈にも気を配り続けた)。

【敵】

島津久光(維新後に左大臣となった薩摩藩主の父、開明的政策を嫌った)、西郷隆盛(薩摩藩、大隈を嫌う)、松方正義(薩摩藩、性格・政治信条ともに反りが合わず)。また、大隈は明治天皇への忠誠心は大いにあったが、天皇から好かれなかった。

【味方】

パークス(イギリス公使、論戦後に大隈を高く評価)、鍋島家(大隈は肥前藩主鍋島直正〔なべしまなおまさ。閑叟(かんそう)〕をあまり評価しなかったが、直正は遺言で「大隈を大切にせよ」と子孫に言い残した)、河野敏鎌(土佐藩、初代農商務卿だが明治十四年の政変で大隈とともに下野し立憲改進党副総理)、大正天皇(皇太子時代から楽しい大隈の話が大好きで小うるさい山県有朋の話は嫌い)など。

【ブレーン】

福沢諭吉(会う前は互いに嫌っていたが初対面で意気投合)、矢野文雄(やのふみお。龍渓〔りゅうけい〕。福沢の門下生)、小野梓(東京専門学校の実質的創立者)など。

【世話になった上司】

大久保利通(薩摩藩、藩閥にこだわらず大隈や伊藤を抜擢)

※肥前藩出身者は、維新後にそれぞれが個人的才能によって昇格したので、薩長土のようなまとまりはない。1874年、必死で止めたのに佐賀の乱を起こした江藤新平の助命を行わず、以後郷里に20年以上足を踏み入れられなかった。しかし、江藤の遺児新作の面倒をよく見て、のち彼は大隈系政党の衆議院議員となった。

【世話をした部下】

「憲政の神様」コンビの尾崎行雄・犬養毅や、鳩山和夫、田中正造(しょうぞう)など。大隈は部下に細かい指示を出さず大まかな方向性しか示さないので、彼らは途中で出て行ったり大隈を追放したり、好き勝手にふるまった。そして大隈は、それを許していた。

【世話をした相手】

三菱の岩崎弥太郎(やたろう)・弥之助兄弟(台湾出兵・西南戦争の軍事輸送を委託、以後三菱と親密だったが政治資金が出ていたかどうかは噂の域を出ない)、関西貿易社の五代友厚(ごだいともあつ。開拓使官有物払い下げ事件では相互の立場があったが、じつは友人)、白瀬矗(のぶ)陸軍中尉(大隈は南極探検後援会会長に就任、南極には白瀬が恩返しで命名した大隈湾〔Okuma Bay〕がある)。また、済生学舎(さいせいがくしゃ。のち日本医科大学)の長谷川泰(たい)や、東京女医学校(のち東京女子医科大学)の吉岡彌生(やよい)が学校設立の際、支援したことも有名。

「孔子は女にモテなかったに違いない」などの名言も

【名言】

①「両腕を取られたよりも悲しく思ったんである」 (⇒右腕とも頼んでいた小野梓が33歳で病死、大隈は「あるんであるんである」など独特の語尾を使う)

②「男女の間に優劣なし」「孔子はあんな人であるから、女にモテなかったのに違いない。それで彼はあんな間違ったこと(「女性と小人〔しょうじん〕は養い難〔がた〕し」)を云(い)うたのである。」 (⇒女子教育の必要性を強く主張し成瀬仁蔵〔じんぞう〕・広岡浅子らの日本女子大学校設立を援助、早稲田大学も私立としては初めて女子学生を受け入れた)

③「幾多の失敗を重ねたが、しかし恐縮はせぬ。失敗はわが師なり、失敗はわが大(だい)なる進歩の一部なり。」「停滞は死滅である」 (⇒死ぬまで変化と成長を遂げ続けた)

始球式で空振りする“お約束”も、実は大隈に由来

【エピソード】

①長崎での英語講師時代の生徒に前田正名(まえださな。農政家『興業意見』の著者)や高峰譲吉(たかみねじょうきち。薬学者、アドレナリンやタカジアスターゼを発見)がいる。大隈は海外渡航経験が一切ない。

②1869年の上京時に政府から賜った築地の邸宅が広すぎて若手政治家や思想家のたまり場となり、「築地梁山泊(りょうざんぱく)」と呼ばれた。

③明治十四年の政変の不運は、大隈が明治天皇の東北巡行に供奉し東京を離れていたことにある。留守の間に参議罷免が決定し、何の対策・根回しもできなかった(そもそも大隈は出たとこ勝負の臨機応変な性格だが…)。

④2度の暗殺危機。外相時代の1889年、条約改正交渉に反対する政治結社玄洋社元社員の来島恒喜(くるしまつねき)に爆弾を投げられ右足の膝から下を切断(51歳)。さらに第二次内閣時代の1916年、対中外交に反対する国家主義者に爆弾を投げられるも不発(78歳)。「早稲田カラー」のエンジ(えび茶)は、負傷時にコートについた鈍い血の色で「(学問は)テロには屈しない」という意味の説もある(一般には1905年の日本初の野球部の海外=米国遠征でのユニフォームの色)。爆弾を投げた直後、短刀で首を突き自害した29歳の来島青年を「国を思う気持ちからの行動」と責めず、毎年命日には墓参りしたらしい。

⑤子連れの来訪者があると子どもにおもちゃを持たせ、女性の来訪者には自邸で栽培している花で作ったブーケを用意して贈ることを常とした。

⑥老人になっても「青年」を自称、かつ彼らを援助したので「元老の敵、青年の味方」というイメージがつき「国民政治家」として大人気に。

⑦死亡後、日比谷公園で早稲田大学主催の「国民葬」が営まれ、約30万人の一般国民が参列、この時、日本で初めて宮型霊柩車(みやがたれいきゅうしゃ)を使用した。なお、大隈の20日後に亡くなった同い年の山県有朋の国葬も同会場で営まれたが、閑散としていた。

【大隈が始めたもの】

①指で円形に示すお金のサインを考案

②鉄道を狭軌(きょうき)に設定

③会計検査院と統計院

④外国為替専門の横浜正金(しょうきん)銀行(のち東京銀行)

⑤大臣演説で「本大臣」ではなく「私」と自称(しかし本人の口癖は「我輩〔わがはい〕」)

⑥初の政党内閣(政党中心だが実質は他勢力との連立の「責任内閣」)

⑦初の百科事典編纂の総裁(三省堂『日本百科大辞典』)

⑧初の始球式(右足が義足だからかすっぽ抜けて転がり大隈が帰ってしまい、打者がわざと空振りしストライク宣告される慣例ができた)

⑨首相として初の地方遊説(第二次内閣時、駅に停車するごとにホームに集う群衆に向け車内から演説し、大喝采の中で次の駅へ出発する「車窓演説」を行う)

⑩軽井沢ブームの火付け役(外国人の別荘地だった軽井沢に別邸を持ち、大隈の死後に皇太子=のちの昭和天皇が8日間滞在してブームとなった。今も軽井沢には「大隈通り」がある)

「字の下手さ」はSNSでも話題に

【特徴】

①約180cmと背が高い(近衛文麿〔このえふみまろ〕と並ぶ歴代首相最長身)

②字が下手で書こうとしない(近年唯一の筆跡が見つかり、意外と愛嬌のある字だった)

③言うことが大きく、しかもよく変わるので「大風呂敷」「二枚舌」と言われる(真面目な松方正義は大隈のこのような側面を嫌った)

④滅多に怒らず「憤怒、愚痴、貪欲等」を避けるよう心掛けていた(その代わり物言いがかなり適当で、相手はよく怒っていた)

【得意・趣味】

園芸(蘭や菊)、新聞を読むこと(「新聞は浮世の写真である」と言っていた)、演説・講演(若い頃は苦手だったが晩年は精力的にこなし、原稿を手に持たず話した)

【好き】

①メロン(現在の大隈庭園にあたる大隈邸の温室で栽培。新種「早稲田」も開発し、日本初のメロン品評会も開いた。大隈が「長生きするにはメロンを食べるのが良い」と発言したことからメロンが一般に広く認知された。また、朝食時には牛乳1合を飲み、豆腐料理も毎日食べた)

②花火(煙火協議会会長に就任し、事あるごとに花火を打ち上げた)

③自動車(日本初の自動車オーナーズクラブである日本自動車倶楽部〔クラブ〕会長に就任。愛車は中古のフランス車オチキスのち新車のアメリカ車キャデラック。なお、帝国飛行協会会長にも就任)

④慶應義塾(4歳上の福沢諭吉はそもそも大隈に学校開設を勧めた人で、東京専門学校の開校式に出席している。早稲田と慶應は野球をはじめとする早慶戦〔慶早戦〕で有名で、創業者も学校も仲良し)

⑤同志社大学と日本女子大学。それぞれの創設者で4歳下の新島襄(じょう)、20歳下の成瀬仁蔵と親交が深い(現在でも早稲田大学と同志社大学・日本女子大学の交流は盛んで、京都の同志社大学とは交換留学制度、すぐ近くの日本女子大学とは単位互換制度がある)

【豆知識】

①政界引退時に侯爵に叙せられたので「大隈侯」。最高位の公爵ではないので「大隈公」は間違い。五爵位は「公・侯・伯・子・男」。

②大隈が「政治は吾輩の生命である」と言い放っていた国民〔民衆〕政治家だからこそ、早稲田大学は政治経済学部が看板学部。在籍生、特に東大落ちの生徒は自己紹介で「早稲田です」と言わず「早稲田の政経です」と言う。

③大隈が、日本は「法律に対する理解が乏しく健全なる権利意識が発達していないこと」を非常に気にしていたため、早稲田大学は法学部も政治経済学部に次ぐ看板学部。

④大隈が、日本の教育は「中央集権的でありかつ学問が西洋の受け売りで独自の発想を生み出すに至っていないこと」を非常に気にしていたため、早稲田大学には教育学部が存在する。その結果“命のビザ”杉原千畝(ちうね)、“走る修行僧”瀬古利彦、“アレ”岡田彰布(あきのぶ)監督に“ピースボート”辻元清美や“クールビューティー”荒川静香、そして“そんなの関係ねえ”小島よしおなど多彩すぎる人材を輩出。しかし、自己推薦で入学後3ヵ月間登校しなかった“ヒロスエ”広末涼子はキャンドルが燃え尽きるかのように中退…。「16号館ボロすぎたから」「正門から16号館遠すぎたから」等と「震度2で倒れる」「早稲田のチベット」と呼ばれる校舎のせいにされていたが、教育学部OBの筆者のもとに「2027年新9号館誕生の予定」と寄付の案内が来ている。

⑤大「熊」じゃないのにビッグベア  大学のマスコットキャラ「WASEDA BEAR」のデザインは法学部出身の漫画家“リアル島耕作”弘兼憲史(けんし)。アメフト部は「早稲田ビッグベアーズ」を名乗り、2024年3月現在、薬物問題もなくかなり強い。

伊藤 賀一  スタディサプリ講師  1972年京都生まれ。新選組で知られる壬生に育つ。法政大学文学部史学科卒業後、東進ハイスクール、秀英予備校などを経て、リクルート運営のオンライン予備校「スタディサプリ」で高校日本史、歴史総合、公共、倫理、政治・経済、現代社会、中学地理、歴史、公民の9科目を担当する“日本一生徒数の多い社会講師”。 著書・監修書に『改訂版 世界一おもしろい 日本史の授業』、『笑う日本史』『「カゲロウデイズ」で中学歴史が面白いほどわかる本』(以上、KADOKAWA)、『1日1ページで身につく! 歴史と地理の新しい教養365』(幻冬舎新書)、『くわしい 中学公民』(文英堂)など多数。

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