平成10年の年賀状②「最初の小説を出すまでの日々」
Japan In-depth / 2023年4月12日 11時44分
本当にそういうことだったのか。それだけでは、私が石原さんの髪型にしなければならなかった理由の説明にはならない。同じ年に起きた二つのことは偶然であろうはずはない。私はなにかに焦っていたのだ。弁護士としての私は順風満帆だったと言ってよい状況だった。
では、なにに焦っていたのか。
わからない。わからなくなってしまっている。
しかし、今の私にはその焦りはない。静かで穏やかな海面が傾きかけた太陽の光をキラキラと反射してまぶしく輝いている。海と溶け合う太陽。その間26年。10冊の小説を出し11冊のエッセイ集を出した。つい最近には田原総一朗さんとの対談も本になった。
なにが私の身体のなかを通り過ぎたがゆえに、私の心から焦りの気持ちが沈静し、それでも未だ輝いているのか。私の弁護士としての仕事の成果は、その26年の間に勝ち得たものだ。
「春。子供二人の受験に追われました。」と書いているから、その前には執筆を終えていたのだろう。次男を私立高校の受験会場に車で送り、長男の大学受験には日吉が受験会場だったので横浜にホテルをとっていっしょに泊まり込んだ。それだけを聞けばなんとも熱心な教育パパということになる。しかし、事実はまことに「普段はさぼりがちな父親業」であった。
長男を連れて広島に転勤したことを思いだす。
私は検事になって初めの1年が終わる前にもう辞めたいと言い出した。もともと国際関係の弁護士になることと迷いに迷った末の任官だったのだ。辞めたいと言い出した私は何人もの上司に面談しなければならなかった。遥かに地位の上の方は、「君なんかには、こんなことでもなければ会うこともないんだよ」と率直に言ってくださった。最終的には、「どこへでも転勤させてやるからもう少し検事でいろ」と言ってくれた。それで両親のいる広島へと願いを出した。
その結果、私は広島の官舎に移り住むことになり、6か月だった長男が歩行器に乗ったまま自由自在に動き回る広いリビングで引っ越し荷物をつくり、広島へ新幹線で移動した。
狭くて暗い官舎の風呂に長男を入れたとき、長男が見慣れない周囲を見回して大きな声で泣き出したのを覚えている。それまでは広いマンションの明るいバスルームに慣れていたのだ。私は、自分一個の決心がもはや自分ひとりのものではないのだということを思い知らされた。3人の家族の運命が私の決心のせいで一つのものとして変転するのだ。
それでも、広島で無事1歳を迎えた長男は、私が広島地検に通勤すべく5階建ての官舎の2階の窓の下を歩いてゆく姿に手を振ってくれたこともあった。
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