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平成10年の年賀状②「最初の小説を出すまでの日々」

Japan In-depth / 2023年4月12日 11時44分

結局、広島には1年しかいなかったけれども、いろいろなことがあった。仕事でも私生活でも、私は若く、未来に希望しか抱いていなかったのだ。28歳から29歳までの1年間なのだ、当然のことだろう。


初めての仕事が火災現場の検証だった。文字どおり、未だ煙がくすぶっている木造の二階建ての家屋に遺体が複数あり、私は遺体とともに大学病院へ行った。そこで解剖に立ち会ったのだ。私は翌日の新聞で火災で死んだ方の顔に大きなホクロがあったことを知った。


解剖といえば別の機会のもののほうが強い印象として残っている。殺人だった。被害者は未だ若い女性で、法医学教室の男性の教授と助手の女性が二人で、つぎつぎと作業を進めていった。私は、人間の皮下脂肪というものが皮膚に切り込みを入れるとまるでガウンを脱ぐようにはがれてしまうものであること、その皮下脂肪は、皮膚の色と違って真っ黄色であることを見て、知った。芥川龍之介の『偸盗』という小説に、その黄色い皮下脂肪が描かれている。さらに、彼の『或阿呆の一生』には、その小説を書くために知り合いの医者に頼んで解剖を見学する場面についての記述がある。


若い法医学教室の女性が被害者の心臓を切り離し、手に掲げていた。最後に教授は「ホトケさんのものはみな返してあげないといけないからね」と言いながら、内臓をすべて遺体に戻し、丁寧に大きな傷口を縫い合わせるように見事に塞いだ。


私は、自分が解剖に立ち会っていることになんの不快感もなかった。それどころか、犯罪で死ぬことになってしまった被害者への深い同情の念と犯人処罰への強い意欲があった。


もっとも、広島での検事の日々のほとんどは暴力団員と付き合う日々だった。覚醒剤事犯が多く、警察の供述調書を読むたびに犯罪者は貧しい人々なのだということをつくづく実感させられた。


しかし、私は自分について検事を辞めても失うものはなにもないように感じていた。逆に、私の心のなかでは、早く弁護士にならなくてはライバルに置いて行かれてしまう、という焦りが渦巻いていた。30歳になるまでに辞めなければ一生検事をしていることになるという強迫観念があった。


年末、私は勇んで新幹線で上京し、アンダーソン・毛利・ラビノウィッツ法律事務所の面接を受けた。アーサー・K・毛利先生部屋のドアを開けると、恐ろしく広い部屋の向こうに大きな机があって、そこからゆっくりと立ち上がって私を出迎え、ソファに座るようにすすめてくれた。そこで私がフィッツジェラルドの話をしたこと、一瞬の間をおいて毛利先生が「オー、スコット・フィッツジェラルドね」と言ったことを覚えている。「君は英語の本ではどんなものが好きかね」と尋ねられたのだ。


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