秀吉の息子は超肥満児のボンクラに…「日本一の教育ママ」淀君が子育てに失敗した決定的理由
プレジデントオンライン / 2022年11月27日 17時15分
※本稿は、永井路子『歴史をさわがせた女たち 日本篇』(朝日文庫)の一部を再編集したものです。
■「教育ママ」は戦後生まれなのか
このところ、教育ママへの風当たりはめっきり強い。中には戦後の産んだ大罪の一つのようにいう人もある。だが、ほんとうに教育ママは戦後の悪現象なのだろうか。
まず、戦前の修身の教科書を思いだしてみよう。
「孟母三遷(もうぼさんせん)の教え」
というのがあった。中国の大学者孟子は、子供のころ墓場の近くにすんでいたので、葬式のマネばかりして遊んでいた。これではいけないというので、孟子の母は市場の近くに引っ越した。すると孟少年は、こんどは「売った買った」と商売のマネばかりする。これも教育上よろしくない、というので学校の近くに移ったら、やっと勉強が好きになったというオハナシ。まさに越境入学そこのけの涙ぐましさではないか。
日本にもこわい教育ママがいた。中江藤樹という学者が、勉強のなかばで故郷へ帰って来ると、その母は雪が降るのにとうとう家に入れなかったという。新井白石の母も大変な賢夫人で、学問から囲碁将棋の手ほどきまでしてやった。
■新井白石は水をかぶってまで勉強した
こう書けば反論もでるかもしれない。孟子や藤樹の学問は純粋な学問だが、今の教育ママは出世のための学問しか考えていない、と。
しかし、孟子の学問も出世のためでなかったとはいえない。貧しい家の子、孟子は、この学問のおかげで、弟子をひきつれ自家用車をつらねて諸国を遊説する大センセイになりおおせた。さしずめ今なら経営セミナーにとび歩く先生というところだろうか(その説くところがあまり実用的でなく、実際に役立たないあたりも、どうやらそっくりである)。
新井白石も学問のおかげで、浪人のむすこから、千石取(せんごくど)りの将軍の顧問格に出世した。チナミに彼が勉強中眠くなると冬でも水をかぶってがんばったのは、なんと九歳の時である。いくらなんでも現代は、九つの子が水あびをするほどキビシクはない。してみると、受験地獄の、つめこみ主義のというのは、少し騒ぎすぎではないだろうか。
■「失敗した教育ママ」チャンピオンは淀君
もっともこれらは成功例だが、昔でも教育ママの度がすぎて失敗した例もないではない。そのチャンピオンとしてここにご推薦申しあげるのは、かの有名な淀君――豊臣秀吉夫人で秀頼の母となる女性である。
これにも異論が出そうだ。
「淀君ってもっと虚栄心が強くて、権勢欲が強かったのじゃないかしら」
が、じつは、これは徳川時代に作られたイメージにわざわいされているのだ。何しろ徳川は豊臣を倒して政権を奪ったのだから、豊臣方のことは悪くいうにきまっている。
その色めがねは、もうそろそろはずしてもよいころだ。そうして彼女を見直すと、意外に権勢には無関心である。その証拠に、ただのマダム・トヨトミ時代の彼女は、夫の秀吉のやることに、何ひとつ口出ししていない。が、いったん母親になると、がぜん彼女は急変する。「女は弱し、されど母は強」すぎたのである。
■七歳で実家が「倒産」、織田陣営で育つ
淀君――本名はお茶々という。永禄十年(一五六七)生まれというから、かれこれ四百余年前のことだ。
父は近江の小谷(おだに)の城主浅井長政、さしずめ今ならベストテンすれすれの大企業主の令嬢というところだが、その少女時代は必ずしも幸福ではない。七歳の年に、小谷城は落城してしまうのだ。企業倒産である。
父は自害、皮肉なことに攻め手は母の兄、織田信長だった。もっともこうしたことは、戦国時代にはよくあった。落城に際し、彼女の母のお市の方や妹たちとともに、織田の陣営にひきとられる。
このとき男の兄弟はひそかに身をかくすが、後で見つけられて惨殺される。このとき手を下したのが信長の将、木下藤吉郎の部下だった。
お茶々たちはその後、伯父信長の清洲の城ですごすことになるが、ほぼ十年後の天正十年に第二の事件がおこる。信長が明智光秀のために、京都の本能寺で殺された――またしても企業倒産!
保護者を失ったお市の方と娘たちは、とたんに生活の安定を失う。事件後半年もたたないうちにお市の方がお茶々たちをつれて、信長の有力な部下、越前北庄(きたのしょう)(福井市)の城主柴田勝家にとついだのは、やむを得ざる永久就職であったのかもしれない。
■弟を殺した男、秀吉の側室の一人に
が、なんと運の悪いことか、その就職先も永久どころか翌年には倒産する。就職した会社が次々とつぶれてしまう人がいるものだが、お茶々母子の姿はそれに似ている。
柴田勝家を攻めたのは羽柴秀吉、もとの木下藤吉郎だった。じつはこの男、お茶々の母、お市の方に恋いこがれていたのだという。それで浅井落城のときのように母と娘を救い出そうとしたのだが、今度はお市が承知しなかった。彼女は夫とともに自害し、お茶々たち三人だけが秀吉の手に渡された。
こうした長い、いきさつの後、お茶々はまもなく秀吉の側室となる。思えばかつて弟を殺した男の寵愛をうけるのだから、縁とはふしぎなものである。
秀吉にはこのほかにもたくさん側室がいたし、だいいち長年つれそったおねねが、正室北政所(きたのまんどころ)としてデンとかまえているから、お茶々の心は平らかではなかったかもしれない。
■秀吉の死後、秀頼にべったりの生活
やがて彼女はみごもった。五十二歳まで子供のなかった秀吉にとって、これは奇跡的なことだ。天下一頭のいい男、秀吉はとたんに親ばかになり、と同時に彼女はがぜんツヨくなる。お茶々がむりにねだって淀に城を作ってもらうのもこのころだ。大坂城には正妻のおねねがいる。そんな所で子供は産みたくない、というところだったのか。以来お茶々は淀どのと呼ばれるようになるのである。
不幸にしてこの子は早死するが、まもなく二人目(のちの秀頼)が生まれることにより、秀吉はさらに親ばかになり、彼女はいちだんと猛母になる。
秀吉の秀頼に対する親ばかは天下一品だ。死期のせまったとき、くどいほど、
「秀頼をくれぐれも頼む」
と言いおいていったのは、あまりにも有名である。
さて、秀吉の没後、お茶々の目には秀頼しかなくなる。秀頼が大坂城のあるじになると、ぴったり彼によりそって離れない。しぜん、政治の表面にも顔を出すが、あくまでも秀頼の利益代表、いわばPTAとしてのご発言だ。
彼女が権勢欲の権化だったらこうではあるまい。むしろ子供などほうっておいて、権力遊びに熱中するはずだが、彼女にはそんなところはない。
■おねねを即刻追い出したのは失策だった
というより、むしろ彼女は権謀オンチである。秀吉の死後間もなく、最大のライバルだったおねねを大坂城から追出してしまったなどは、政治家としては最大の失点であろう。おねねは、表向きには、秀頼の嫡母ということになっている。秀吉は一応彼女の顔を立てて、秀頼に「まんかかさま」と呼ばせていたくらいなのだ。
それがしゃくにさわったからこそ、お茶々はおねねを追出してしまったのだろうが、秀吉の死後、不安定な時期にこうしたやり方はすこぶるまずい。現代の歴代内閣だって、長持の秘訣(ひけつ)は、最大のライバルを閣内に抱えこむことではないか。それを閣外に出してしまったらどういうことになるか。この際少しの不愉快はがまんして、北政所を立てておけば後であれほどみじめなことにはならなかったはずである。
しかし、彼女は、政治家であるより母でありすぎた。秀頼を独占したかったのだ。何ごとも秀頼第一――。しかもそのやり方が、すこしガメツすぎた。
――人はどうでもよい。わが子さえよければ、あとは知っちゃいない。
それが露骨すぎるあたり、なにが何でも一流校へとはりきる行きすぎママに似ている。
■帝王学を教え込む育児法も大失敗
たしかにお茶々が秀頼に期待したのは、エリート中のエリートコースだった。有名幼稚園からナダ校、東大などというケチな夢ではない。日本でたった一人だけというエリートコースつまりパパ・ヒデヨシと同じ関白になることであった。それどころか、彼女はパパ以上のものをむすこに望んでいた。
「おとうさまは偉かったけど、ほんとうのこといってガクがおありにならなかったわ。あなたはそれじゃだめよ」
というわけで、秀頼にガクを要求する。与えたのは「樵談治要(しょうだんちよう)」といういわば帝王学の書。室町時代に、一条兼良(かねら)という学者が、将軍足利義政の夫人、日野富子にたのまれて、その子義尚のために書いた「お心得」である。このへんに目をつけるあたりは大したもので、今ならカントを原書で読め、と督励するようなものだろうか。
まさしく秀頼は彼女の夢だった。ガクあり権力あり――理想の男性になるべき掌中の玉だった。もっとも、あんまり大事にしすぎたので秀頼は超肥満児になってしまい、馬にも一人では乗れなかったという話もあるから彼女の育児法はどうもやぶにらみだったようだ。
■大事な秀頼と自滅する最期を選んだ
いや、それより、彼女は秀頼の教育において決定的なミスをしている。
「カエルの子はカエルになれるが、太閤の子は太閤になれるとは限らない」
ということに気づかなかったのだ。秀頼は秀吉と似ても似つかないボンクラであることを見ぬく冷静さにかけていた。今歴史をみれば自明の理であるそのことが、彼女にはわからない。現代だってよくあることだ。社長の子が社長にむかず、東大出の二世は必ずしも東大にはいれないのに、それに気づかないママが何と多いことか――。
やがて彼女は挫折する。関ケ原でおねねに手痛いしっぺ返しをうけたことは、いずれふれる機会もあるだろう。それにつづいて、大坂冬の陣、夏の陣――徳川方と戦ってはことごとく敗れて、遂に秀頼とともに火の中で自殺してその生涯を終える。一生落城につきまとわれた女性にふさわしい最期である。
実はこの前に、家康は、秀頼が大和一国でがまんするなら命を助けてやろう、といっている。狸オヤジの真意のほどはわからないが、もしそれがホンネだとしたら、案外そのあたりが秀頼の能力にふさわしかったのではないか。が、わが子を愛したあまりその才能を過信した母はついに自滅の道を選んだ。
過当な期待でわが子を押しつぶす――そんなおろかさはお茶々一代でたくさんだ。四百年後の現在までくりかえしたくはないものである。
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歴史小説家
1925年、東京生まれ。東京女子大学国語専攻部卒業後、小学館勤務を経て文筆業に入る。1964年『炎環』で直木賞、82年『氷輪』で女流文学賞、84年菊池寛賞、88年『雲と風と』ほか一連の歴史小説で吉川英治文学賞、2009年『岩倉具視』で毎日芸術賞を受賞。著書に『絵巻』『北条政子』『つわものの賦』『この世をば』『茜さす』『山霧』『元就、そして女たち』『源頼朝の世界』などのほか、『永井路子歴史小説全集』(全17巻)がある。
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(歴史小説家 永井 路子)
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