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なぜ平城京以前は短命で、平安京は1000年も続いたのか…現代人には想像しづらい「糞尿処理」という衛生問題

プレジデントオンライン / 2023年2月4日 10時15分

平安京の復元模型(平安京創成館の展示物。画像=名古屋太郎/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

古代につくられた藤原京や平城京といった都はいずれも短命だった。なぜ平安京だけは長く続いたのか。工学博士で元国土交通省港湾技術研究所部長の長野正孝さんは「かつての都では糞尿処理に問題があり、衛生状態が悪くなりやすかった。一方、平安京は繰り返される洪水で浄化されたため、千年の都となれた」という――。

※本稿は、長野正孝『古代史のテクノロジー』(PHP新書)の一部を再編集したものです。

■「水」で失敗した藤原京と平城京

天武天皇によって、唐の長安に模した藤原京が676年につくられ、続いて元明天皇によって710年に平城京に遷都が始まった。中国の最新の土木建築技術が導入され、碁盤の目の道路がつくられたことが知られている。

さて、藤原京は、奈良県橿原市と明日香村にかかる都で、当時存在した奈良湖とは一番離れた地域である。それはなぜか。壬申の乱で天武天皇が勝利した直後であり、外患を防御できる盆地の一番奥に都をつくったと考えられる。その結果、舟運の便が悪くなった。結果、平城京に遷都されるまでの時間は短かった。さらに平城京に710年に遷都されてからも、恭仁京など幾つもの都を転々とし、平城京に落ち着いたのは745年のことであった。その後784年、長岡京に遷都されるまでの少なくとも39年間は、平城京が政治の中心地であった。

平城京は、物流面では北側に淀川から大阪湾に抜ける木津川と接し問題なかったが、飲み水の確保が難しかった。最盛期には10万人以上の人々が暮らしていたが、水源は佐保川一つであったため、生活排水による汚染が進み、疫病がはやりだした。井戸は枯渇し、汚染され、たちまち糞尿まみれの街になってしまった。碁盤の目の道路をほどよく洗い流すような水が必要であった。中国の外形上の模倣だけの都市計画では無理があった。水をコントロールできなかったと考える。

■難波京が維持できなかった理由

神崎川は現在は摂津市から大阪湾を結んでいる淀川水系の21キロメートルの一級河川である。延暦4年(785年)4月、時の摂津職和気清麻呂が淀川治水のため掘削を行ない、現在の神崎川の一部となった。古代において川に手を加えればすぐに「治水のためにつくられた」という説が出てくるが、これは治水の工事ではない。運河の工事である。784年に平城京から遷都された長岡京への物流路を確保するための工事である。詳しく当時の淀川河口の姿を見てみよう。

湿地の風景
写真=iStock.com/Shin
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Shin

この時代から100年前に、時計の針を戻してみる。当時の大和朝廷では大阪湾口に港をつくるか否かをめぐる大きな政争が起きていた。蘇我氏が日本海交易と大和川水系の交易路を独占していた時代である。大和朝廷はどうしても瀬戸内海に進出したかった。乙巳の変(645年)で蘇我氏を倒したあと、朝廷はすぐに上町台地、現在の大阪城付近に都をつくり始めた。前期難波宮である。686年に焼失してしまったが、その後も難波京に挑戦した。

私は、もともと大阪で、港を備えた都を機能させることは当時の技術では難しかったとみている。

■潮の流れや軟弱地盤で港が崩れる

大阪城のすぐ南西にある法円坂遺跡は、6世紀頃まで機能し、巨大な港湾施設があった。

やがて、大和川の土砂が淀川本流に迫り、上町台地の先端部に迫るようになった。難波の堀江、難波津などの工事が行なわれたとされているが、押し出される土砂で圧迫された河口部で波が荒れ、この港の機能維持が難しくなった。

激しい潮の流れだけでなく、軟弱地盤にも阻まれた。この大阪の軟弱地盤で杭を打って新しい岸壁や物揚げ場づくりに挑戦しても、その後もすぐに埋まってしまう。潮位差が2メートルほどあり、水が引くと残った水圧によりつくった施設はすぐに崩れた。やがて、港ができない都は放棄された。

繰り返しになるが、当時の技術では、大阪の築港は不可能であった。明治になってからも淀川改修、大阪港の整備はかなり難工事であった。大阪城ができてどうして港ができない。そんな疑問が出る。それは、地盤が違うからだ。台地上のしっかりした地盤で建てられるものと、軟弱な水際でつくるものは違う。結局、難波京もあきらめて、淀川筋を京都盆地まで上がって、京都盆地に都をつくることを選んだのである。

上町台地先端の波の荒い河口部に近づかないで、なんとか淀川を上るために、副水路(専門用語では側方運河という)として新しい水路を掘って淀川右岸を上ることとした。現在の神崎川の一部である。

■和気清麻呂の運河の実像

和気清麻呂がどこからどこまで開削したか記録にない。多くの地図を見ると猪名川の河口から豊中、吹田あたりまで中世まで海であったとすれば、安威川から淀川までの3キロメートルほどの小さな水路を掘削したと考える。現在の尼崎の神崎から摂津までの10キロメートル以上の長い川を掘削したのではない。大勢の人夫が川筋と並行して小さな溝を掘っただけのもので、淀川の洪水防止ではない。

長野正孝『古代史のテクノロジー』(PHP新書)
長野正孝『古代史のテクノロジー』(PHP新書)

ちょうどこのころ行基上人が瀬戸内海航路の摂播五泊(せっぱんごはく)を開いた。摂津・播磨五つの港、河尻(尼崎)、大輪田(神戸)、魚住(明石)、韓泊(姫路)、室生(たつの)である。これで播磨灘から淀川河口まで船でつなぐことができた。

そして、東の起点の河尻(当時の猪名川の河口、現在の神崎町)は京都への淀川水運の出発点となった。河尻を出て長岡京まで、一泊目は淀川との合流点の江口(大阪市東淀川区)である。この付近の干満差は約2メートル、江口付近で潮が止まったのではないか。潮が止まるところには遊郭ができた。摂播五泊では河尻、西の大輪田(現在の福原)、室生にも遊郭ができた。当時は港がつくられたらすぐに遊郭ができたのである。江口の上流にもう一つか二つ港が必要である。

私は、新たに都を計画している長岡京まで河口から二つか三つさらにつなぐ港が必要であったと考える。船は一日漕いだら必ず休むからだ。

■平安京にも引き継がれた公衆衛生問題

その後794年には平安京に遷都され、京都は明治維新まで日本の首都でありつづけた。京都の場合、運よく賀茂川が北から南に流れるよう土地が傾斜していた。上京の上流部を賀茂一族が昔から支配し、遷都のときにはすでに上水の水供給システムができていた。また、秦氏が灌漑(かんがい)用水を桂川から引き入れていた。水運として淀川の側方運河として利用された神崎川があった。

問題は平城京でも苦労した公衆衛生であった。平安時代の京都も例外なくすぐに糞尿まみれのマチになった。京の都大路の発掘調査によれば、築地(ついじ)塀の裏は公衆便所であったという。大勢の糞尿で固まった糞石という塊が側溝や築地の至る所で発見されたという。公衆便所がなかったからである。さらに側溝には馬の死骸、行き倒れの死体まであったという。公衆衛生の対策がない都が、千年以上も続いてきたのは、皮肉にも首都である京の治水対策ができなかったことによる。

■繰り返される洪水が京都を救った

平安時代末期、時の権力者白河法皇の有名な「意にならぬもの、賀茂河の水、双六の賽(さい)、山法師」いわゆる「天下三不如意」の逸話がしっかり答えを出している。繰り返される洪水が都を洗浄し、千年の都を常に洗って浄化してくれたのである。度重なる洪水が増え続けようとするスラム街の糞尿を水に流し、市街地の衛生状態を保ってくれたおかげで、街を維持することができたのである。

洛中洛外図上杉本(1565年、狩野永徳作、国宝)の右隻(部分)
上杉本洛中洛外図(1565年、狩野永徳作、国宝)の右隻(部分)。水害で流されてもすぐに建て直せる、板張屋根の庶民の家々が描かれている。(画像=米沢市上杉博物館/ブレイズマン/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

天正6年(1578年)5月、信長が中国攻めを始めようとしていたとき、京都では大雨が三日三晩降り続き、洪水が起き、四条河原町付近まで水につかったという。しかし、1カ月後の6月14日には祇園祭が催されたという。すぐに水が引く町だったのだ。

室町時代に描かれた「洛中洛外図」にもその答えがある。板張の屋根、板葺土間、網代壁の粗末な家並が続いている。水害で流され、壊されても、また、たくましく建て直しができるマチの姿がそこにある。洪水にうまく耐える術がこの都にはあった。江戸の町の300年は、水ではなく火、火事で発展し続けたことも書き加えておく。

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長野 正孝(ながの・まさたか)
工学博士
1945年生まれ。名古屋大学工学部卒業。工学博士。元国土交通省港湾技術研究所部長、元武蔵工業大学客員教授。広島港、鹿島港、第二パナマ運河など、港湾や運河の計画・建設に携わる。

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(工学博士 長野 正孝)

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