1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. ライフ
  4. ライフ総合

NHK大河ドラマでは描けそうにない…唐人医師と不倫していた徳川家康の正妻・築山殿の惨すぎる最期

プレジデントオンライン / 2023年2月12日 13時15分

NHK大河「どうする家康」で、瀬名(築山殿)を演じる有村架純さん。第31回日本ジュエリーベストドレッサー賞。=2020年1月21日、東京都江東区(写真=時事通信フォト)

徳川家康の正妻、築山殿はどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「家康と不仲だった築山殿は、武田方の医師と関係を持ち謀反を画策したと記す史料もある。その裏切り行為の裏には嫉妬心と子供を守ろうとする気持ちがあったのではないか」という――。

■なぜ今回の大河の徳川家康は泣いてばかりなのか

松本潤演じる松平元康は、なにしろよく泣く。目下、大河ドラマ『どうする家康』のなかで、いちばん気になる点かもしれない。

戦乱の世には、多くの人が日常的に気持ちを高ぶらせ、いまよりも喜怒哀楽が激しかったことは想像にかたくない。それにしても、ここまで泣いたか、とは思う。

それはともかく、いまのところドラマのなかで、元康が泣く大きな原因になっているのが、織田信長に討たれた今川義元の嫡男、氏真のもとに残したままになっている妻子、すなわち瀬名こと築山殿と、彼女とのあいだに生まれた嫡男の竹千代(のちの信康)と長女の亀姫の3人である。

事実、元康が織田信長につくと決めたため、氏真が元康に対し「岡崎逆心」と怒りをあらわにし、築山殿と子供たちの命は危険にさらされたようだ。

しかし、それは戦国の世にあってはよくあること。元康がそれを承知のうえで、自身の領国を守るために妻子を半ば捨てる決断をしたのである。

そうだとしても、元康にとって妻子が気がかりでなかったとは言えない。むろん視聴者にとっても、ドラマで有村架純が演じるかわいく健気な築山殿の行く末がどうなるかは、気になるところだろう。

■決して円満ではなかった夫婦生活

元康は比較的早い時期に妻子を取り戻している。

元康が信長と同盟を結んだのは、三河国(愛知県東部)の東部へと領国を拡大したいという彼の思惑が、三河方面の不安を払拭して美濃の斎藤氏を攻めたい信長のそれと一致したからだった。そして、永禄4年(1561)の春以降、元康は三河東部に侵攻し、しばらくのあいだ、各地で松平対今川の合戦が繰り広げられた。

築山殿の肖像(写真=西来院所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
築山殿の肖像(写真=西来院所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

その合戦のひとつとして、元康は永禄5年(1562)、上之郷城(愛知県蒲郡市)を攻略して、城主の鵜殿長照を討ち取り、その息子2人を生け捕りにした。そして、この2人と、駿府(静岡市)の今川氏真之もとにいた元康の妻子3人との交換が成立。妻子は岡崎(愛知県岡崎市)の家康のもとに取り戻されたのである(築山殿と亀姫はそれ以前に岡崎にきていた、という主張もある)。

とはいえ、築山殿は今川家の御一家衆である関口氏純の娘。今川家と縁を切るように岡崎に来るのは、それはそれで複雑な気持ちであったことは想像にかたくない。このことが原因で、元康と築山殿が不仲になったという説もある。

一方、永禄6年(1563)3月には、竹千代と信長の次女である徳姫との婚約が成立している(結婚は永禄9年か10年)。もちろん、織田家との同盟強化が目的だが、じつは、結果的にではあるが、この結婚も将来に禍根を残すことになる。

■「初恋の相手」と永久の別居

元康との仲はともかくとしても、築山殿は岡崎に移ってからも城外の築山屋敷に住み、元康とは別居状態だったようだ。

ちなみに、元康は永禄6年(1563)7月に今川義元からもらった「元」の字を捨てて「家康」と改名。同9年(1566)に今川を排除して三河一国を統一すると、姓を「徳川」とあらためている。

自分の母体であった今川の排除と比例しての夫の勢力拡大に、築山殿はどんな気持ちを抱いていたことだろうか。

そして、戦国大名としての今川氏が滅亡した翌年の元亀元年(1570)6月、家康は領国が遠江国(静岡県西部)にまで拡大したのを機に、その支配を目的に、居城を岡崎城から浜松城(静岡県浜松市)に移した。

そのとき岡崎城は、同年8月に元服した竹千代あらため信康にまかせたのだが、築山殿も家康にともなって浜松に移ることなく、岡崎の築山屋敷に残った。こののち、築山殿が家康と同居することは二度となかった。

■クーデターに関与した疑い

以後は、家康と築山殿の関係は、悪化の一途をたどったといっていい。そして、最悪の結果を迎える導火線になったと思しき事件が、天正3年(1575)に起きていた。

大岡弥四郎事件。それは岡崎城の南方から武田軍を城内に引き入れて三河国を武田の勢力下に置き、そのもとで信康を盟主とするあたらしい徳川家を築こうというクーデター計画だった。

岡崎町奉行の大岡弥四郎らが首謀者だったが、参加者のひとりが裏切って通報したことで発覚した。弥四郎は7日間にわたって竹ののこぎりで挽かれたのち、妻子らとともに磔刑になっている。

仮に成功していれば、家康は窮地に陥ったと想像されるが、江戸時代前期に成立した『松平記』や、17世紀末に成立した『岡崎東泉記』には、築山殿が事件に関与した旨が記されているのだ。

静岡大学名誉教授の本多隆成氏は「今川氏とゆかりが深く、家康とは不仲であった築山殿には、武田方からすれば付け入る隙があったのであろう」(『徳川家康の決断』中公新書)という見方を示す。そして、このクーデターへの関与を前提にすると、のちに起きたことが理解しやすくなるはずだ。

■「医師を招いて不倫をしていた」

さて、その後に起きたことに関しては関係史料が乏しく、いまなお真相が解明されたとはいいがたい。史料が少ないのは、現実に起きたことが徳川家の汚点になりかねないので、隠蔽されたためだろう。これまで一般にいわれてきたのは、以下のような話である。

信康と正妻の徳姫との関係が冷え切った結果、徳姫は信康や築山殿の不行跡を12か条にわたって列挙し、酒井忠次に持たせて父親の信長のもとに届けさせた。そして、信長から内容について問い質された忠次が、10か条まで「存じている」と認めたので、信長が信康の切腹を命じた――。

これは江戸時代初期の『三河物語』に書かれていることだが、「不行跡」の内容については書かれていない。それを同時期に書かれた『松平記』で補うと、徳姫が産んだ子が2人とも女児だったので、信康も築山殿もよろこばなかったこと、信康が粗暴な性格で、たとえば踊りが下手だというだけで踊り子を弓で射殺したこと、などが書かれている。

さらには、築山殿が甲斐国(山梨県)から唐人医師を招いて不倫をしていた、その相手を通じて武田勝頼と内通し、そこに息子の信康を巻き込んでいた、という内容も――。

だから信長は信康と築山殿に不信感を抱き、家康に2人の処分を命じ、家康は泣く泣く従った、というのである。

■謀反の疑いによる「処分」

いま「処分」と書いた。そう、信康だけでなく築山殿も「処分」されるのだが、その内容は最後に記す。この処分の原因には、大岡弥四郎事件にさかのぼる家臣団の対立、すなわち家康の浜松派と信康の岡崎派の対立があった、とする見方が、近年、浮上している。

その当時、家康は武田氏の反攻に手を焼いていた。このため徳川家の内部が、それでも戦争を続けようという家康方と、むしろ武田氏と接触しようという信康方に分裂。大岡弥四郎事件もその流れのなかで起きたもので、こうして家臣団が対立してしまったため、武田への内通の責任をとらせることもふくめ、家康みずからが妻子の「処分」を決断した、というものだ[新行紀一『シリーズ・織豊大名の研究10 徳川家康』(戎光祥出版)内『岡崎城主徳川信康』、柴裕之『徳川家康 境界の領主から天下人へ』平凡社など)。

一方、本多隆之氏は、この「処分」が行われた時点では、家康方に歯向かうほどの勢力は徳川家内部になかったとして、家臣団の対立が原因という見方には疑問を投げかける。ただし、本多氏もまた、「処分」の原因に、信康や築山殿の周辺に謀反を疑われる事態が生じていて、謀反の疑いで「処分」されたという見方を示す(『徳川家康の決断』など)。

■自分と子供を守るため

では、どう「処分」されたのか。天正7年(1579)8月4日、信康は岡崎城から追い出され、大浜(愛知県碧南市)、堀江城(静岡県浜松市)と移され、その後、二俣城(浜松城)に幽閉され、9月15日、父親の家康から切腹を申し渡され、自刃した。

一方、築山殿は、長男の死に半月あまりさかのぼる8月29日、浜松に近い富塚で野中重政、岡本平右衛門、石川太郎右衛門らによって刺殺され、首を切り取られたという。享年38。

嫁ぎ先が実家筋と対立し、しばらくは捨てられたように実家筋に置き去りにされた挙げ句、正妻なのに、夫が本拠地を浜松城に移したのちも岡崎に残され、目をかけられなかった築山殿。『松平記』によれば、彼女が抱いた嫉妬心は、やがて息子や嫁にも向けられていったという。

真偽はともかくとしても、彼女の置かれた状況を考えれば、その心が夫から離れ、裏切り行為につながるというのは、考えられない展開ではない。また、そのころの徳川家は、武田の勢力に押され、いつ潰えてもおかしくない状況だった。そうであれば、関係が冷え切った夫は捨てて武田と内通し、自分と子供たちを守ろうとしても、それほど不思議なことではない。

だが、それにしても、最期はあまりにもむごい。それを頭に置いて、有村架純演じる健気な瀬名を追うと、『どうする家康』の味わいが深まることはまちがいない。

----------

香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。小学校高学年から歴史に魅せられ、中学時代は中世から近世までの日本の城郭に傾倒。その後も日本各地を、歴史の痕跡を確認しながら歩いている。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。著書に『イタリアを旅する会話』(三修社)、『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)がある。

----------

(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください