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「信長の野望」では公家風の弱小キャラだが…今川家最後の当主・今川氏真を「暗愚な君主」とするのはもう古い

プレジデントオンライン / 2023年2月26日 18時15分

『集外三十六歌仙』に掲載されている今川氏真(写真=静岡県編『静岡県史』/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

徳川家康に見限られ、没落した戦国大名・今川氏真はどんな人物だったのか。歴史家の安藤優一郎さんは「歴史ドラマやゲームでは和歌や蹴鞠に熱中し、十年弱で今川家を滅亡させた愚かな戦国大名として描かれることが多い。しかし、そのイメージは間違いだ」という――。

■戦国大名・今川氏真は本当に“暗愚の君主”だったのか

海道一の弓取りと称されて、東海地方で勢威をふるった今川義元が桶狭間で織田信長に討たれた後、名門今川氏は凋落の一途をたどる。

桶狭間の戦いからわずか十年弱で戦国大名としての今川氏が滅亡したため、そのイメージは決定的なものとなったが、そこで今なお厳しい視線に晒(さら)されているのが、義元の跡を継いだ嫡男の氏真である。

今川氏真というと、これまであまり良い印象を持たれていない。蹴鞠(けまり)、和歌といった貴族趣味に熱中し、酒色に溺れ、軍事に関する才覚は持ち合わせていなかった――今川氏を父・義元から当主を継ぎ、あっという間に滅亡させた「暗愚な君主」と見なされるのが江戸時代以降の定番だ。

江戸初期に成立した『甲陽軍鑑』には、氏真は娯楽に興じ、政務を放り出して家臣に任せっきりにした様が記録されている。老中・松平定信は自著『閑なるあまり』で、暗君として茶道に没頭した足利義政、学問の大内義隆と並んで、和歌の今川氏真の名前を挙げた。

こうしたイメージは現代にも引き継がれ、歴史小説やドラマなどに反映されている。また、戦国時代をテーマにした歴史シミュレーションゲーム「信長の野望」に登場する氏真は、他の戦国大名に比べると明らかに能力値が低い。人物画も公家風のキャラクターに描かれ、長らく最低クラスの弱小武将の扱いを受けてきた。

■氏真に全責任を負わせるのは間違いだ

だが、筆者は氏真だけに今川氏滅亡の理由を求めるのは酷だろうと思う。そもそも、氏真は本当に暗愚な君主だったのだろうか。

結論からいえば今川氏を取り巻く状況の変化が滅亡を早めた一番の理由なのであり、氏真を暗愚な君主と決めつけるのは、いささか性急だ。

また、戦国大名今川氏の滅亡はイコール今川氏の断絶ではない。最後の当主氏真にしても、その後長らく生き永らえている。

そして、氏真の子孫が高家として、江戸時代には旗本身分ながら高い官位を持ち、幕府の儀典係としての役割を果たしたことはあまり知られていない。そんな知られざる今川氏真、江戸時代を生きた今川氏についてみていきたい。

■信長より先に“楽市楽座”を実行した先見性

まずは、家康との関係からみてみよう。

氏真は天文七年(一五三八)生まれで、家康は同十一年(一五四二)生まれであるから、二人の年の差は四歳である。ちなみに、氏真は家康死去の二年前にこの世を去っており、生涯のほとんどの時間を二人は共有したことになる。

家康は八歳の時から十年余、駿府で過ごしたが、今川氏の人質というよりも、一門として厚遇されていた。義元の姪瀬名すなわち氏真の従妹を家康が娶ったことで、二人は非常に近い姻戚関係にあった。

家康を厚遇することで今川氏の柱石となることを期待したわけだが、氏真にしても家康は弟のような存在として映り、頼みにしていたのではないか。

だが、桶狭間の戦いは二人の関係を一変させる。

桶狭間古戦場公園「近世の曙」(織田信長・今川義元)銅像
桶狭間古戦場公園「近世の曙」(織田信長・今川義元)銅像(写真=Tomio344456/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

義元の討死を境として今川氏の勢威が衰えるのは事実だが、それは氏真の能力の低さを必ずしも意味しない。戦国大名今川氏の当主として、領国経済を活性化させるための施策を次々と打ち出していることはたいへん注目される。

例えば、信長が創始者のようなイメージが今も強い楽市楽座令という名の経済政策を、信長に先んじて打ち出したことはその象徴である。軍事力強化の前提となる経済力の充実を目指していた。

また、用水路の開削などの治水にも力を入れたが、これもまた農業生産力つまりは経済力のアップに直結した。富国強兵を視野に入れた一連の施策だった。

■家臣の離反、武田の裏切りで今川氏は没落したが…

戦国大名というと軍事力の強化に力を入れた側面が強調されがちだが、その前提となる領国経済の強化にも熱心であったことは見逃せない。その点、氏真もまさしくあてはまるのであり、領国支配の強化に努めていたことが確認できる。

しかし、あちらが立てばこちらが立たずではないが、氏真が同盟関係にあった北条・武田氏との提携を優先させたことで、三河への影響力は低下せざるを得なかった。それが引き金となる形で家康たち三河の領主たちの自立を招くと、今川氏の退潮傾向は甚だしくなる。

氏真からすると手痛い離反だった。とりわけ家康の離反は裏切られた気持ちが強かった。

その悪い流れを氏真は止めることができず、三河から今川氏は駆逐されてしまう。そして、遠江にもその流れが波及していった。

今川氏にとり決定的なダメージとなったのは、同盟関係にあった武田信玄が今川領に食指を動かしたことである。桶狭間の戦いから八年後の永禄十一年(一五六八)十二月、信玄と家康が密約を結んで今川領への侵攻を開始すると、挟撃された氏真はなすすべなく、駿府を脱出する。

そして、遠江の掛川城に逃げ込んだ。約半年にわたり家康と籠城戦を展開したものの、翌年五月に掛川城を明け渡し、引き続き同盟関係にあった北条氏に保護される身の上となる。氏真三十二歳の時であった。

■北条氏のもとで復活を狙う氏真

氏真が掛川城を家康に明け渡して北条領に逃れたことをもって、戦国大名今川氏は滅亡したとされるが、その後、四十年以上生きる氏真はどんな人生を送っていたのか。

領国を退去した氏真は小田原城下にいったん身を落ちつける。氏真に同行していた正室早川殿は北条氏康の娘であったため、氏康の跡を継いでいた当主氏政とは義兄弟の関係にあった。

小田原に移った後も、氏真は旧領国の回復を諦めていなかったが、やがて北条領を去らざるを得なくなる。北条氏がそれまで敵対していた信玄と同盟関係を結んだことが背景にあった。

窮した氏真が頼ったのは、今度は信玄と敵対関係になっていた家康だが、やがて家康のもとも去る。出家し、宗誾(そうぎん)と名乗った。この時点で、大名として復活するのを諦めたことがわかる。

その後は妻の早川殿と共に京都で暮らし、和歌や蹴鞠などの文化に通じる氏真は公家たちと交流を重ねている。在京中には父義元を討ち取った信長の所望に応えて、蹴鞠を披露したとの俗説まであるが、さすがに実話ではないだろう。

氏真は、ずっと京都にいたのではなかった。家康のもとに戻ると、配下の武将として三河の牧野城を預けられたこともあったが、後に城は没収されている。

■家康に保護され、子孫は江戸幕府の旗本になる

しかし、二人の関係はこれで終わったわけではない。その後も家康は氏真の生活の面倒をみている。後には氏真の息子や孫を召し出し、自分の跡継ぎと定めた秀忠のもとに出仕させている。

皇居正門石橋
写真=iStock.com/lkunl
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/lkunl

二人の関係には理解し難い点もあるが、名門今川氏の当主で、家康自身も厚遇されていたこともあって、氏真を粗略には扱えないという気持ちが強かったのではないか。

もちろん、政治的配慮は見逃せない。今川氏の領国を奪ったことを踏まえ、氏真や子孫に一定の配慮を施すことで、今川氏や旧臣たちの反発を最小限にとどめるとともに、世間の評価をアップさせたいもくろみは否めない。

氏真には子供が数人いたが、長男範以が父に先立って慶長十二年(一六〇七)に死去したため、その嫡男直房が家督を継いでいる。範以は徳川家つまり幕府に出仕することなく、この世を去ったが、直房は二代将軍となっていた秀忠に旗本として仕えている。つまり、今川氏が大名に復活することはなかった。

次男高久は直房にせんだって秀忠に仕えていたが、今川姓を名乗り続けることはできなかった。分家は今川姓を名乗れないのが習いという秀忠の意向があったからだ。

そこで選んだのが品川という姓である。高久が江戸で与えられた屋敷が品川にあったことが理由だが、ここに今川氏の流れをくむ品川氏が誕生する。

■名を捨てて実を取った分別のある人物

晩年、氏真は江戸で暮らしたが、その七十七歳の生涯を終えたのは慶長十九年(一六一四)十二月のことであった。

氏真の死後、幕臣となっていた旗本の今川直房、同じく旗本の品川高久は高家に取り立てられる。高家と言うと、殿中松の廊下で勅使接待役の浅野内匠頭長矩に斬り付けられた吉良上野介義央が有名だろう。

高家は幕府の儀典係として殿中儀礼を指南するほか、幕府から朝廷への使者も務めた。つまり京都の御所にもあがっている。伊勢神宮や日光東照宮などへの代参役、勅使の接待にもあたった。そのため、高家は相応の格式を持つ者でなければならなかったが、そこで白羽の矢が立ったのが室町幕府以来の名家だった。

江戸幕府としてはこうした名家の末裔(まつえい)をして幕府の儀典係を務めさせることで、徳川家に箔(はく)を付けたいもくろみが秘められていた。その点、今川氏(品川氏)は高家に取り立てるのにふさわしい名家であった。

戦国の世に翻弄(ほんろう)された氏真は大名としては今川氏最後の当主となってしまったが、裏切られた家康による世話を受け入れ、子孫もその幕下に甘んじることで、江戸時代に入っても今川の家名を存続させることに成功する。

■氏真の先入観を取り払い、再評価するべきだ

現在では、NHK大河ドラマ『どうする家康』では溝端淳平演じる氏真が注目を集めている。蹴鞠や和歌に興じる「暗愚な君主」像に依拠することなく、次々と家臣たちに離反され、時代の流れにあらがえなかった悲しき君主像を打ちだしている。この点では前進だ。

筆者は、今川氏を滅亡させた暗愚な君主という先入観を取り払って、「名を捨てて実を取った分別を持った人物」として再評価すべき時に来ているのではないだろうかと考えている。大河ドラマがそのきっかけになることを期待したい。

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安藤 優一郎(あんどう・ゆういちろう)
歴史家
1965年千葉県生まれ。早稲田大学教育学部卒業、同大学院文学研究科博士後期課程満期退学。文学博士。JR東日本「大人の休日倶楽部」など生涯学習講座の講師を務める。主な著書に『明治維新 隠された真実』『河井継之助 近代日本を先取りした改革者』『お殿様の定年後』(以上、日本経済新聞出版)、『幕末の志士 渋沢栄一』(MdN新書)、『渋沢栄一と勝海舟 幕末・明治がわかる! 慶喜をめぐる二人の暗闘』(朝日新書)、『越前福井藩主 松平春嶽』(平凡社新書)などがある。

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(歴史家 安藤 優一郎)

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