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なぜ天皇家と秋篠宮家はギクシャクするようになったのか…逃れられない「天皇のスペア」という苦悩

プレジデントオンライン / 2023年7月13日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Starcevic

天皇陛下と秋篠宮さまをめぐっては、考え方の違いがたびたび報じられてきた。静岡福祉大学名誉教授の小田部雄次さんは「兄宮と弟宮の関係に緊張が生まれることは歴代の皇室でもあった。それは、天皇になるための『象徴学』への取り組み方が兄弟でまるで違うからだ」という――。

※本稿は、小田部雄次『天皇家の帝王学』(星海社新書)の一部を再編集したものです。

■「兄宮と弟宮の緊張関係」はたびたびあった

古代における壬申の乱は、兄弟による皇位継承の危うさの例とされるが、歴代天皇家の皇位継承において兄弟相続が常に危ういものであったわけではない。神話の時代ではあるが、23代顕宗天皇と24代仁賢天皇は兄が弟に先に皇位を譲った例でもあった。

以後も、兄弟相続は数多くあり、そのたびに乱が起きたわけではない。とはいえ、穏便に見えた51代平城天皇と52代嵯峨天皇の間で側近勢力による薬子の変が起きたように一定の緊張関係が生じたのも確かであった。兄弟の間は穏便でも、側近など周辺の力学でいらぬ緊張が生まれることはしばしばみられた。

近現代においても兄宮と弟宮の関係は微妙な緊張関係のなかにあった。明治天皇と大正天皇には兄弟宮はなかったが、昭和天皇には秩父宮、高松宮、三笠宮の3人の弟宮がいた。まだ幼少のころは年の近い、秩父宮、高松宮と同居して、ともに学び遊んだ。

しかし長男である昭和天皇が次期の皇位継承者である東宮になることで、次男、三男とも別居し、東宮として規模の大きい御殿に住み、数多くの側近の世話を受けた。東宮御学問所は、東宮のための特別な教育機関であり、次男、三男、四男には、そうした特別な機関は設けられなかった。

将来の天皇になる皇子はひとりだけであり、その皇子のためだけの教育がなされたのである。それは戦前であれば「帝王学」、戦後であれば「象徴学」とよばれるものであった。

■天皇のスペアでしかないことに煩悶することも

「帝王学」にせよ「象徴学」にせよ、唯一の天皇になるための学びであり、同様の学びを東宮ではない弟宮たちにさせることはない。弟宮たちの「帝王学」は「帝王に仕える臣下」としての態度やふるまいを学ぶものであり、東宮と同じ立場で学ぶことは、むしろ許されなかった。

とはいえ、東宮が天皇となりその治政を行うなかで、天皇のやり方などに違和感を持つ側近や支援者たちが弟宮に期待を寄せる事態も生まれていった。陸軍青年将校たちが秩父宮を担いで、平和主義的な昭和天皇と代えたがった動きもそのひとつであろう。高松宮などは悪化する戦局のなかで天皇の方針に同意できず、かつ自分がたんなる天皇のスペアでしかないことに煩悶したりした(小田部雄次『昭和天皇と弟宮』)。

戦後になっても、高松宮や三笠宮は国民と直接ふれあい戦後民主主義に溶け込もうとしたが、天皇家の家長としての昭和天皇はそうした弟宮たちの「奔放で」、「無責任な」ふるまいが気になっていた(『昭和天皇拝謁記』)。

■慎重派の天皇と自由奔放な秋篠宮

こうした天皇や弟宮たちとの間の微妙な齟齬(そご)は、歴代天皇家の伝統を受け継いだ家長としての自覚を持たされた天皇と、その「臣下」と位置づけられてきた弟宮との意識の差から生まれ、かつ戦後の自由で大衆化された社会を肯定する時代の価値観により増幅されたともいえる。

東宮になる兄宮と東宮にならない弟宮との教育の差は、令和の天皇と秋篠宮の養育においてもみられた。そもそもが令和の天皇と秋篠宮はもともとの個性が違い、御養育掛であった浜尾実は「慎重派の兄君と自由奔放な弟君」と見ていた。

その違いは両者の結婚のあり方に如実に示され、弟宮は満24歳の誕生日前に23歳になったばかりの川嶋紀子と婚約し、それも昭和天皇の服喪中であった。兄宮は満33歳になる直前に満30歳で外務省職員であった小和田雅子と婚約した。最初の出会いから6年が過ぎていた。

■「上の方は自由に、下の方は窮屈に」の真意

こうした性格の違う兄弟だが、秋篠宮誕生直後の記者会見で皇太子であった平成の天皇は、「二人の子が通学するようになると、それぞれお供や護衛の違いが出てくるだろうが、私は可能な限り、分け隔てしないでいきたい。それまでは、上の方[浩宮]は自由に、下の方[礼宮]は窮屈にとの方針で育てたいと考えています」と養育方針を語った。通学するようになるまでは、兄は自由に、弟は窮屈にと、育て方を違えるというのである。

手をつないで登校する二人の小学生男児
写真=iStock.com/mapo
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/mapo

兄は将来、天皇として窮屈になるから、弟は自由になるからという。実際、成長するにつれて兄はストイック、弟はフレンドリーという印象の生き方になった。「分け隔てしない」とはいえ、平成の天皇も、将来の天皇となる令和の天皇と、天皇となる予定のない秋篠宮とでは、接し方がまったく同じにはならなかった。

そもそも前近代においても東宮傅や学士は東宮のために置かれ、近代以後の御学問所も東宮のために設置された。平成の天皇の代に御学問所はなくなったが、教育参与など多くの識者が「帝王学」さらには「象徴学」の進講に尽力した。

令和の天皇の代になって、教育参与もなくなり、両親の教育と支援によって令和の天皇と秋篠宮の教育はなされてきたが、天皇としての自覚を促されてきた令和の天皇と、弟宮としての一生を予定されていた秋篠宮とでは「象徴学」への取り組み方の熱意が異なっていった。

■文仁親王の「象徴学」が迷走する理由

総じて、平成の天皇も令和の天皇も、天皇となって後も、明治、大正、昭和と同様、毎年正月に人文・社会・自然科学の専門家から講書始で進講を受けている。また歴代天皇の式年祭に先だって、それらの天皇の事蹟の進講を専門家から受ける。さらに三権の代表や主要省庁の幹部から内政・外交などの説明も受け、現実の政治や社会、経済の問題への視野を広げている。

他方、各皇族は現皇室内部の方々から皇族の心得などを学ぶしかないのが現状だ。天皇皇后およびその直系の同居皇族と、傍系の宮家皇族では教育の機会や情報収集の規模がおのずから異なっている。そのため、天皇家と宮家皇族との間に、現状認識の違いや、そこから発生する皇族としてのふるまいの原則が異なってしまうことも少なくない。

また、かつての家父長制度が皇室内でも弱まり、天皇家と宮家皇族との間の一体感は緩みはじめているようにもみえる。

そうしたなか、悠仁親王の誕生で、弟宮として皇位継承者としての教育を充分には受けてこなかった秋篠宮文仁親王が突如皇嗣となり、次代の天皇となることが予定されるようになった。この突然の皇位継承者への道は、秋篠宮文仁親王の「象徴学」の迷走の一因となっている面もあろう。

■悠仁親王の「天皇への道」は険しい

フレンドリーな性格の秋篠宮は、かつての秩父宮、高松宮、三笠宮に似た自由奔放路線に傾きがちである。それはこれからの新時代に適合する皇室としての可能性も内包している面もあろう。他方、歴代天皇家の伝統と慣行をどこまで背負っていけるかという家長としての信念と責任感に欠けるきらいもある。

小田部雄次『天皇家の帝王学』(星海社新書)
小田部雄次『天皇家の帝王学』(星海社新書)

長女である眞子さんの結婚に関し、皇族の自由や私生活の大事さを主張しつつも、皇室の伝統やしきたりに対応できないまま迷走してしまっていることに、そうした秋篠宮の苦衷があるようだ。そして、将来の天皇に予定される悠仁親王の養育にあたり、かつてのような東宮傅も、御学問所も、教育参与も設けられず、ひたすら紀子妃の奮闘にかかっているのが現状である。

日本をとりまく環境も急激に変化しはじめ、かつては平和のシンボルであった戦後の天皇家の役割にも変化がうまれるかもしれない。国民とともに歩み、被災者や社会的弱者に寄り添う姿も変わっていくかもしれない。その変化によって皇室と国民との間の信頼関係にも変化が起こるかもしれない。

こうした変動の時代のなかで、悠仁親王がどのような天皇になっていくのかは誰も予測できないし、これからの皇室がどのような道を選び、国民とどのような関係を築いていくのかも未知数である。ただ、歴代天皇の学びとたしなみの歴史の文脈から考えると、「帝王学」や「象徴学」を体系的に学ぶ場も失った現在の皇室にとっては、暗中模索の険しい道のりが続くのではないか。

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小田部 雄次(おたべ・ゆうじ)
静岡福祉大学名誉教授
1952年、東京都生まれ。立教大学大学院文学研究科博士課程後期単位取得退学。専門は日本近現代史。『皇族』(中央公論新社)など著書多数。

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(静岡福祉大学名誉教授 小田部 雄次)

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