東京観光の起爆剤「皇居に江戸城天守閣を再建」はアリか…画期的アイデアに潜む「皇室と幕府」の微妙な関係
プレジデントオンライン / 2023年11月30日 13時15分
■昭和時代にも浮上した「江戸城の天守閣再建」
菅義偉前首相が、明暦の大火(1657年)で焼失した江戸城天守閣の再建に前向きな発言をして話題になっている。11月12日の「日曜報道 THE PRIME」で、東京のインバウンド観光に活用するため、「一つの大きな方向性と世論をつくらないといけない」と話したのだ。
歴史的な経緯もいろいろありそうなこの問題を、皇室のあり方、歴史景観の復元、国有財産の有効利用、観光開発などの視点から多角的に考えてみたい。
「江戸城天守閣の再建」は、昭和天皇の晩年に自民党の中山正暉衆院議員らが、「天皇ご在位60年へのプレゼントとしてはどうか」と運動したことがある。
だが、昭和天皇が喜ぶとは思えず、私は「首都機能を移転したのちは、江戸城本丸跡である東御苑とその周辺は、江戸の風景を再現し、現在の皇居がある西の丸跡は明治からの近代日本の記念公園というのも面白い」と提案していた。
■秀吉の命で江戸に入った家康が築城
その後、NPO法人「江戸城天守を再建する会」が設立され、いまも運動している人がいるし、松沢成文・現参院議員は2012年の都知事選挙に出馬したときに、公約に掲げていた。
「わが庵は 松原つづき 海近く 富士の高嶺を 軒端にぞみる」は、室町時代の武将・太田道灌が、足利義政のために詠んだ歌だ。当時、日比谷公園は船着き場で、皇居や国会議事堂付近は高台だった。
相模の扇谷上杉氏家臣だった太田道灌が1457年、利根川(当時は現在の隅田川が本流)の対岸の古河公方に睨みをきかすために城を築いた。これが江戸城のはじまりだ。北条氏の重要拠点の一つだったが、家康に江戸を本拠にするように指示したのは豊臣秀吉で、平野の中心で丘陵地帯の先端が海に突き出し、大河が波静かな湾に流れ込む地形が大坂に似ていたことに注目した。
■初代は姫路城のような真っ白な天守閣
天守閣は3度造営された。初代は慶長年間(1607年ごろ)で、総塗籠の壁と鉛の瓦のため「富士山と雪の峰に聳(そび)える」真っ白な天守閣だった。姫路城をイメージすればいい。2度目は大坂夏の陣の少し後、秀忠が将軍だった元和年間で、3度目は家光の寛永年間だ。1657年の明暦の大火で焼失し、約360年にわたり再建されなかった。
元和、寛永の天守閣はよく似たデザインで、五層で壁の下部に黒い板を張っていたが、元和の時は漆塗りの板、寛永では黒色に加工した銅板だった。瓦には金の飾りが施された。防火対策がほどこされていたのだが、ひとつだけ窓が開いていて、そこから火が入ったらしい。
デザインは、大坂城天守閣のような入母屋式大屋根に望楼が乗るものでなく、層塔式で下層と上層の面積の減り方が少なく、最上階の高欄はなかった。内部は倉庫で、将軍が居住したり登ったりすることは原則なかったという。
現存天守では松本城に少し似たイメージだ。高さは建物部分だけで44.8m(天守台を含めて58.6m)ほどあり、現在の大阪城の41.5m(同じく54.8m)、名古屋城の36.1m(同じく55.6m)より大きかった。現存12天守で最大は姫路城の31.5m(同じく46.4m)で、豊臣時代の大坂城や安土城とほぼ同じだ。
■「ただの展望台」と再建計画は中止
大火のあと再建するつもりで天守台も築かれたが、幕閣の長老だった会津藩主・保科正之が、「天守は近代、織田右府(信長)以来の事にて、ただ遠くを観望いたすまでの事なり」と意見し、再建は中止になった。天守閣というものが織田信長の創り出したものだと、権力中枢にあった正之が意識していたわけで、当時の常識だった。
天守閣のルーツは、いろいろ説があり、天主、殿主といった呼び方をされた例も安土城に先立って存在しているが、1576年から築城された安土城は、規模も豪華さも桁違いだった。しかも、大手門から天守閣の足下までは、ほぼまっすぐに伸びた階段が続いていた。
バチカン市国のシンボルであるサン・ピエトロ寺院は、ほぼ同じ時代に建設された。テヴェレ河畔のサンタンジェロ城のあたりから、ゆるい上り坂を上りながらバチカンへ向かう時の高揚感は素晴らしいが、信長と同じ発想だ。信長はルネサンス人だった。
■幕府は天守閣の効用をわかっていなかった
保科正之は金蔵を空にするほどバラマキを行い、江戸の町並みを立派にした。市民の幸福を優先する「民生重視」の方針は立派そうだが、実はそうでもない。天下泰平が確立したこの時期、保科正之のような城下町バラマキ型の大名は多かった。ところが、農民の犠牲の下で、城下の武士や町民など将軍や殿様に近いところにいる人だけが潤う、不均衡な優遇だった。
また、三代将軍家光の時代までに、税収の伸びに結びつかないバラマキで蓄えておいた資金を使い果たし、以降、幕府や大名の財政は窮乏し、軍備や前向きの経済開発ができなくなった。さらに、実用的な意味はなくても、権威を象徴し、将軍や江戸の町のカリスマ性を向上させる天守閣の効用を理解していなかった。
結局、天守閣は再建されることはなく、将軍のカリスマ性を失わせる原因となった。高知、松山、丸亀、宇和島、和歌山、小田原など江戸時代に天守閣を再建したところも多いが、それがバカだったと思う市民はほとんどいないだろう。
京都では光格天皇の希望で、火事で焼けた京都御所を再建することになった。中世の影響が強かった焼失前の建物ではなく、時代考証をして平安時代に近づけたため、朝廷のカリスマ性はぐっと上がった(現存のものは嘉永年間の火事で焼失したのち、安政年間に焼失前にならい再建)。パリの凱旋(がいせん)門だって、実用性は何もないが、費用をかけただけの価値はある。
■大都会の中に埋もれている江戸城
大名の屋敷は、江戸城の城内や近所にあったが、明暦の大火のあと、御三家や加賀藩などは外堀の外に移された。現在の防衛省が尾張、赤坂御所が紀伊、後楽園が水戸、東京大学本郷キャンパスが加賀の藩邸跡で、それぞれ人口数千人規模だった。
残念ながら、皇居周辺(江戸城趾)は、有効活用されているとはいいがたい。江戸時代、皇居外苑には譜代大名の屋敷が並んでいた。しかし明治維新後は、二重橋の前あたりは、閲兵式などが行える広い広場として砂利が敷き詰められ、その外側には、松などがまばらに植えられている緑の広場となり、和田倉門に近いあたりは噴水公園がある程度で、極端に低い利用状況だ。
■皇居西側には広大な空閑地が広がっている
いま皇居の新宮殿や宮内庁があるのは、大御所やお世継ぎが住んだ「西の丸」である。江戸城本丸御殿や西の丸御殿は頻繁に焼失し、幕末には西の丸の仮御殿に将軍や和宮、篤姫などが住んでいた。
東京遷都後、明治天皇が引き継いだが、火事で焼けたので明治宮殿が建設された。公的な場と御所も兼ねていたが、空襲で焼失した。
天皇ご一家のお住まいである現御所や昭和天皇の吹上御所があったのは西の丸の西、半蔵門側の吹上御苑である。江戸時代後半には庭園で、防火のための緩衝地帯になっていた。戦前はゴルフ場に使われていたが、戦後は昭和天皇の意向で武蔵野の昔に返ったような広大な空閑地になっている。
本丸、二の丸、三の丸の跡は、東御苑と呼ばれているが、天守台があるのと、香淳皇后のために建設された桃華楽堂、雅楽などを演奏する楽部、文献調査や陵墓の管理に当たる書陵部の施設、皇室のお宝を展示する三の丸尚蔵館、皇宮警察などがあるのみだ。
■皇室が「徳川将軍の継承者」に見えてはいけない
現状の皇居とその関連施設をそのままに天守閣を再建しようというのが、菅前首相の提案の趣旨のようだが、やめたほうがいい。
そもそも、君主の公式の宮殿とお住まいが軍事的な要塞のなかの奥深くにあるのは、世界でも類例がない。故高松宮は、低い塀にだけ囲まれた京都御所にいた時の姿こそ、皇室のあるべき姿という考えだった。
「皇族というのは国民に護ってもらっているんだから、過剰な警備なんかいらない。堀をめぐらして城壁を構えて、大々的に警護しなければならないような皇室なら、何百年も前に滅んでいるよ」(『文藝春秋』平成十年八月号)
それでも、戦前の明治宮殿は、住まいと諸行事が行われる公式スペースが一体化していた。しかし、いまは天皇ご一家は吹上御苑におられ、新型コロナ禍の時期にはほとんど外出されることすらなかった。
そこへ天守閣など再建すれば、ますます、皇室の伝統から離れて徳川将軍の継承者のようになってしまう。しかも、展望台として最上階に観光客を上げたら皇居が丸見えで、徳川が皇室を見下ろすことになる。
■お住まいは「江戸城奥深く」のままでいいのか
私は、皇居や皇室施設をオープンにして有効利用することには大賛成だ。かつて、京都御所や桂離宮、宮内庁の管理下にない京都迎賓館ですら観光客はほとんど入れなかった。
だが、安倍内閣時代に菅義偉官房長官のイニシアチブで開放方針が採られ、ほぼ完全オープンになった。東京でも迎賓館に入りやすくなり、皇居乾通りの見事な桜の並木の花見も可能になり、桂離宮は有料(18歳以上は1人1000円)で参観できるようになった。
皇居界隈の施設の管理主体は、宮内庁や環境省などさまざまだが、いずれにしても国有財産だ。それならば、国民も楽しめるようにし、また、経済的・財政的に有効に使うべきなのは当然だ。現在のように、人数制限のある皇居一般参観だけではもったいない。
私は、究極的には、天皇陛下が江戸城奥深くにおられることはやめて、京都にお帰りになるかどうかは別としても、国民に近い所に住まわれるほうがいいと思う。新宮殿は当面、現在の施設を使えばいいが、かねて提案しているように、東御苑から馬場先門周辺は江戸城に戻すのがいいだろうし、その一環として天守閣復興計画を進めることもけっこうなことだ。
■低コストで天守閣を再建することは可能
再建費用に数百億円はかかるが、観光面でも都市景観でも価値はある。木造にする必要はない。江戸城の天守閣は、安土城や豊臣時代の大坂城と違って、そこに住むものではなく、将軍も登ったことがないはずで、単なる飾りである。それならば、外観復元とエレベーターで上がる展望台で十分だ。
倉庫の内部など忠実に復元しても意味がない。木造にして喜ぶのは、木造建築を得意にする業者や研究者などだけだ。伝統建築の技法を生かすためなら、もっとコスパのよい建築復元はいくらでもある。数百億円よりも少ない費用で実現できるだろう。
西の丸や吹上御苑には、明治宮殿(日本の歴史において江戸城より重要な歴史の舞台だ)を復元し、昭和天皇の住まいは博物館化して、庭園も国民が気軽に散策できる公園として整備すべきだ。
皇居前広場など外苑は、単なる広場でなく、都心の一等地として経済的にも合理的な活用を図るべきだ。閲兵式のような使い方は今はないだろうから、一部はパレードなどする祝祭空間にして、残りは民間に売却して財政再建に使ってもいい。
このように、東京のど真ん中に位置する皇居スペースをどのように活用するか、アイデアはいくらでも出てくる。今回の江戸城天守閣の再建計画が、皇室施設のあり方も含めて、国民全体で議論するきっかけになることを期待している。
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徳島文理大学教授、評論家
1951年、滋賀県生まれ。東京大学法学部卒業。通商産業省(現経済産業省)入省。フランスの国立行政学院(ENA)留学。北西アジア課長(中国・韓国・インド担当)、大臣官房情報管理課長、国土庁長官官房参事官などを歴任後、現在、徳島文理大学教授、国士舘大学大学院客員教授を務め、作家、評論家としてテレビなどでも活躍中。著著に『令和太閤記 寧々の戦国日記』(ワニブックス、八幡衣代と共著)、『日本史が面白くなる47都道府県県庁所在地誕生の謎』(光文社知恵の森文庫)、『日本の総理大臣大全』(プレジデント社)、『日本の政治「解体新書」 世襲・反日・宗教・利権、与野党のアキレス腱』(小学館新書)など。
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(徳島文理大学教授、評論家 八幡 和郎)
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