「大勝ちを狙うと、逆に大負けする」ビジネスでも応用できる武田信玄の"絶対に負けない戦術"
プレジデントオンライン / 2024年2月23日 7時15分
※本稿は、加来耕三『リーダーは「戦略」よりも「戦術」を鍛えなさい』(クロスメディア・パブリッシング)の一部を再編集したものです。
■完勝するとメンバーの心が驕り高ぶり、組織がかえって崩壊する
大勝ちを望まず、ほどほどの勝ちでよい、という条件闘争の場面や部分的勝利を求めるビジネスの勝負もあります。
大きく勝たなくてもいいが、絶対に負けてはならない、といったシーンもあるはずです。ここだけは、と部分的に死守しなければならないような場面もあるでしょう。
だからでしょう、日本の諺(ことわざ)には昔から、「逃げるが勝ち」というのがあり、中国兵法にも「三十六計、逃げるに如(し)かず」(形勢が不利となったとき、あれこれと策を用いるよりも、逃げてしまうのが最良の方法である)というのがあります。
勝ちすぎない、ということでは、武田信玄の「五分の勝ち」という言葉が伝えられています。
本稿では、負けないための堅実な「戦術」や考え方を紹介していきましょう。
五分の勝ちでよしとする
「五分は励みを生じ、七分は怠りを生じ、十分は驕りを生じる」
これは『名将言行録』に収められた武田信玄の言葉です。
五分の勝ちであれば、組織はさらに上を目指そうと励む、と信玄はいいます。
七分の勝ちは、心の緩みや怠慢を生むことを警告する必要が生じる。
そして十分の勝ち、つまり完勝するとメンバーの心が驕り高ぶり、組織がかえって崩壊する可能性が生まれるというのです。
■大勝ちを狙うと、逆に大負けする
信玄が言う「五分の勝ちでいい」というのは、つまり半分程度の勝ちであれば、人は自分を過信せず、次はもっと頑張ろうという意識になる、というわけです。
勝ちすぎてはいけない、という考え方は、あらゆる時代において通用する普遍的な戒めを含んでいます。
勝ちすぎれば人は有頂天となり、平常心を失い、コツコツ積み上げる努力もしなくなってしまう。それが人間心理というものだ、と信玄は戒めているのです。
五分の勝ちでよい、と信玄が考えるに至ったのは、彼の苦い失敗経験がもとにありました。
1548年(天文17年)の「上田原(うえだはら)の合戦」で、信玄は敵の信濃の老将・村上義清(よしきよ)の陽動作戦にひっかかってしまい、板垣信方と甘利虎泰という武田軍の飛車・角ともいうべき古参の代表的武将を失ってしまいました。
また、1550年(天文19年)の「砥石(といし)崩れ」では、またしても村上義清の戦術に翻弄(ほんろう)され、砥石城を包囲して落とすはずが、逆に村上軍に包囲されて散々に攻撃を仕掛けられてしまいました。
いずれも勝つことに前のめりになっていたせいで、守りが疎かになり、逆に大きく負けてしまいました。
苦い経験を経て、信玄は勝つときはほどほどでよい、と考えるようになったのです。「四十までは勝つことにこだわり、四十を超えたら負けぬように工夫することだ」ともいっています。年齢的にも、大きく勝つよりも、絶対に負けないための戦術を組むようになりました。
しかし、この話には後日談があります。信玄の思いは、武田家の後を継いだ勝頼には伝わりませんでした。
■優秀な父を持つ子供のジレンマ
武田勝頼といえば、長篠・設楽原の戦いで織田信長率いる鉄砲隊に、散々に撃ち破られ、見るも無残な惨敗を喫した武将として記憶している方も少なくないでしょう。
しかし彼はけっして、無能な武将ではありませんでした。
むしろ個人の力量としては、戦国武将の中で五指に入るほどの能力があった、と筆者は思っています。
その勝頼がなぜ失敗したのか、彼は己れの能力を先代である信玄を超えることに使おうとしたからでした。
優秀な父(先代)を持つ子供は皆、このジレンマに陥ります。本当は自分の方が、父より優秀なのだ、と周りに知らしめたい気持ちを抑えられなくなってしまうのです。
これは現代社会でも、よくみられる現象でしょう。
たいていは能力のある、出来物(できぶつ)(人格・才能に優れた人物)の二代目社長が、己れの能力を過信して、調子づき、よせばいいのに新規事業に手を出して会社を潰してしまったとか、カリスマ上司の跡を継いだ人が上司のやり方を全否定して、仕事が回らなくなったとか、顧客の方ではなく売り手の身内を意識しすぎて動き、結果が出ない、というようなことはよくあることです。
■勝ったとしても、払う犠牲が大きすぎる
武田勝頼の話をもう少しつづけると、彼は父・信玄が生きているときに落とすことができなかった遠江国(とおとうみのくに)(現・静岡県西部)の高天神(たかてんじん)城を落とすことに、執着しました。
高天神城は要害堅固で、攻めにくい山城です。信玄がこの城を落とすことにこだわらなかったのは、戦略的価値が低かったからでした。
ところが、1574年(天正2年)5月、勝頼は2万5000の大軍を擁して、高天神城を急襲します。
無理押しの力攻めで、味方に千人を超える死傷者を出して、一カ月という期間をかけ、ようやく城は落城しました。
しかし後年、高天神城が徳川軍に攻められた際、勝頼はほぼ見殺しにしてしまいます。山城で援軍を送りにくかったことに加え、敵に取られたとしても武田軍としては、戦略的に不利にはならなかったからです。
けれども武田の家臣たちは、犠牲を厭(いと)わず手に入れた城を、簡単に見捨てる勝頼に不信感を抱きました。
このときの勝頼の振る舞いに不満をいだいた武将たちは、次々と彼の許を去っていったのです。
勝つ必要のないところで、勝ちにこだわるあまり、家臣の気持ちに気づけなかった勝頼は、信玄の「五分の勝ちでよい」とする教訓の真意を活かすことができませんでした。
■逃げ道を一方向だけ残しておいた
一方で、「五分の勝ちでよい」=勝ちすぎてはいけない、という考え方は、時代を超えて受け継がれています。
山崎の合戦で敗色が濃くなった明智光秀の軍勢は、一時、青龍寺(せいりゅうじ)(勝龍寺などの別名あり)城に退いたのですが、急追してきた羽柴秀吉は、城の一方向をわざと空け、明智勢をそこから散らして、勝利を確かなものとしました。
また幕末、官軍と旧幕府軍が江戸で戦った「上野戦争」(1898年・慶応4年)で、官軍を勝利に導いた大村益次郎も然りでした。
大村は、上野の寛永寺に立て籠もる旧幕府方の彰義隊を、わずか半日余りで倒しましたが、決して完勝をめざしたりはしませんでした。彼もほどほどの勝ちでよい、と考えていたのです。
彰義隊に対して、大村は追いつめすぎず、奥州へ通じる北の逃げ道を用意していたのです。
寛永寺を三方向から攻めた官軍ですが、大村は根岸方面の一カ所だけはあえて兵を配置せず、敵の退路として開けていたのです。
「逃げたい者は逃げればいい」と暗に、彰義隊に示したわけです。
敵を追い詰めると、死に物狂いで反撃してきます。最終的に勝ったとしても、こちらも相応の犠牲を払うことになりかねません。
五分、あるいはせいぜい七分の勝ちをめざした秀吉や大村は、やはり名采配者といえるでしょう。
■これ以上勝ったら、大負けするリスクがある
勝ちに等しい引き分けでよしとする
部分的な勝利、場合によっては引き分けでも十分という戦いもあるでしょう。
負けるのはまずいけれど、引き分けならば及第点という場面です。
織田信長が本能寺に倒れた後、その遺産を取り込んで大勢力となった羽柴秀吉(二十カ国)と徳川家康(五カ国)が戦った小牧・長久手の戦いを、家康の視点で見ると「引き分けで十分」という状況だったことがよくわかります。
1584年(天正12年)3月、10万とも6万ともいわれる大兵力を擁した羽柴秀吉と、対する信長の遺児・織田信雄(百万石)と徳川家康の連合軍1万6000との間で、戦いが勃発しました。小牧・長久手の戦いです。
秀吉に煽(おだ)てられ、己れが信長の直孫・三法師(さんぼうし)(のちの秀信(ひでのぶ))の後見人になったつもりでいた信雄は、ようやく秀吉に騙されたことに気づき、家康と同盟を結び、秀吉に対抗しようとします。信雄が秀吉派の三家老(実は秀吉の演出)を処罰すると、秀吉はそれを口実に戦を仕掛けてきたのです。
当初、信雄方の犬山城を秀吉についた池田恒興が奪取して先手を取りましたが、信雄・家康連合軍は兵力差をものともせず、小牧山に城郭を構え、前に出てきた恒興の娘婿・森長可(ながよし)を打ち負かして一勝をあげ、さらに名誉挽回を狙って、家康の三河(みかわ)への大奇襲戦を仕掛けようとした恒興・元助(もとすけ)父子、長可らを、再び長久手で撃破しました。
敵将の池田恒興・元助父子、恒興の娘婿・森長可も討ち取り、家康は上々の戦果をあげたのです。
恒興らが敗れ、その知らせを聞いた秀吉は、あわてて全軍を連れて、楽田(がくでん)に構えた陣を出て、竜泉寺(りゅうせんじ)川に夜陣を張ります。
勢いに乗る徳川軍が出てくるところを明朝討ち取ろうとしたのですが、家康はこの夜のうちに、静かに小牧山城まで移動していました。
そこからは双方が仕掛けず、膠着(こうちゃく)状態に陥ります。
家康は血気にはやる家臣たちから、「なぜ秀吉を討つ絶好の機会を逃したのですか?」と尋ねられると、次のように答えたといいます。
「あのとき、夜討ちをかけたら勝ったかもしれない。しかし、それでは大変なことになっただろう。秀吉は天下統一の大功をたてようと、望んでいる人だからだ。
そもそも秀吉軍は十万の兵、こちらは信雄と合わせても二万程度。この劣勢をもって、大軍と戦うだけでも武人の名誉ではないか。すでに昼の一戦に勝ったのだから、もう十分だろう。私がこの一戦に臨んだ目的は達成した。
ましてや夜襲を仕掛けて、秀吉を討ち漏らしてしまえば、秀吉は負けたことを憤り、天下を取ることよりも、まず徳川家を潰すことが先決だ、と考えよう。そうなれば、互いに無益なことだ、と思いいたったのだ」(『名将言行録』)
ここでいう家康の「目的」とは、徳川の力を秀吉や世間に見せつけることでした。
徳川は強いと思わせることができれば、今後は秀吉も軽々しく手は出せないでしょうから、抑止力が働くはずです。
家康は、最初から秀吉に完勝することなど考えていませんでした。秀吉を本気で怒らせたら、さすがの徳川軍もひとたまりもないでしょうから。
一方、秀吉からしても、九州の島津や関東の北条、奥州の伊達、そして徳川と、全国にはまだ強敵が残っていました。
家康に全勢力を傾けると、他が手薄になってしまいます。強襲すれば犠牲が多くなってしまいます。そうした秀吉の気持ちも読んだうえの、家康の静観(攻撃中止)の判断でした。
家康は狙い通り、勝ちに等しい引き分けを手にしたわけです。
■潔く散るよりも、いったん逃げてリベンジする
逃げるが勝ち
三十六計、逃げるに如かず――。
困ったとき、逃げるべきときには、逃げて身の安全をはかるのが、最上の策である、という中国古典兵法の極意です。
私たちは、「逃げるのは卑怯なことだ」とつい考えてしまいますが、時と場合によっては最高の戦術となることをお伝えしましょう。
逃げるイメージのない織田信長も、状況次第ではためらいなく、逃げるという判断も的確にしています。
例えば、1570年(元亀(げんき)元年)4月に、信長は越前の金ヶ崎(現・福井県敦賀市)で、浅井・朝倉の連合軍に挟み撃ちにされたことがありました。
のちに、「金ヶ崎の退(の)き口」といわれた戦いです。
越前の朝倉義景を奇襲したら、信長の義弟で味方と信じていた北近江(きたおうみ)を治める浅井長政に、まさかの裏切りをされてしまいました。
敦賀平野は三方を山に囲まれ、一方は日本海に落ちる。前方から敵を迎えるだけでも難しいものを、後ろから浅井軍が迫り、挟み撃ちにされてはどこにも逃げ場はありません。信長は袋のネズミで、絶体絶命の状況に追い込まれました。
ここで信長は迷うことなく、即断で逃げ出しました。家臣や友軍をすべて置いてきぼりにしたまま、親衛隊のみを従えて駆け出したのです。
ほとんどの人間は、こうした局面にいたりますと、武士らしく潔く討死(うちじに)しようと思うものです。日本人はとりわけ面子にとらわれますから。
失敗したら華々しく散って、あの人は潔かったと周囲に印象づけられればそれでいい、と考えるわけです。
しかし信長は、状況を冷静に判断していました。
挟み撃ちされたのが織田家の領地であれば、逃げたら浅井・朝倉の連合軍に領地を侵略されることになります。
しかし、戦場の越前・金ヶ崎はもともと敵地であり、信長が逃げたからといって、浅井・朝倉連合軍はそれ以上に領地を広げることはできません。
要は再戦して、勝てばいいわけです。
実際、二カ月後には、姉川(あねがわ)の戦いで浅井・朝倉の連合軍に、信長はリベンジを果たしました。
■信玄や謙信に媚び、へつらってでも生き残る
信長は目的のためなら、手段を選びません。彼には面子などという概念が、そもそもありませんでした。目的はあくまで勝つこと。面子を立てることではありません。
ですから、生き残るためには平気で逃げることが選択できたのです。恥ずかしい、などとは一切考えませんでした。
世間がどのように己れを見ようが、最終的に勝てば世間の見る目も変わります。
生き抜いて再戦するためには、必要であればいくらでも逃げますし、敵に媚びを売ることも決して厭いません。
信長は織田包囲網を15代将軍・足利義昭に仕掛けられて、“磔(はりつけ)”になったように、身動きの取れない状況に追いつめられたことがありました。
そのようなとき信長は、敵の将軍義昭であろうが、ときの第百六代・正親町(おおぎまち)天皇であろうが、泣きついて和睦の名分を得て、「死地」をくぐり抜けています。
彼には火のように攻めるイメージしかない、と思い込んでいる人には意外な史実かと思いますが、むしろ信長の強さはここにあったような気がします。
例えば信長は、武田信玄に手紙を送り、「あなたのことをリスペクト(尊敬)しています」とひたすら媚び、へつらったことがありました。
このとき信長は、南蛮渡来の珍しい品々を恭しく贈呈しました。信玄が治める甲斐の国は、四方を山に囲まれているため、あまり珍奇な品物は流通していませんでした。
武田の家臣はその豪華さに、信長は心底、わが主君を敬慕している、とみなしました。
しかし信玄は、これは一時のハッタリ、時間稼ぎだと信長の心を読みました。
「その証拠に、贈り物を入れて来た器をよく見てみろ、心からの敬慕がないものは、器にまで気を配らないものだ。きっと器の漆塗りの層は薄いはずだ」と信玄は言いました。
なるほど、と家臣が小刀で漆を削ったところ、なんと十幾層に漆は塗られていました。
さしもの信玄もこのときは、もしかしたら信長は、わしのことを心から尊敬しているのかもしれぬ、と思ったと伝えられています。
この配慮こそが、信長の真骨頂でした。
さらに返礼の武田家の使者が来ると、信長は自ら鵜飼(うか)いをして獲った鮎を、使者にふるまったといいます。完璧といっていいおもてなしといえます。
一方で信長は、上杉謙信にはお気に入りの絵師・狩野永徳(えいとく)に描かせた『洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)』を贈り、屏風の真ん中の位置に駕籠に載っている謙信を描かせ、「あなたがこのように上洛するときは、私自ら、馬の轡(くつわ)を取って、京都をご案内いたします」と伝えているのでした。
ポルトガルの宣教師が安土城を訪れたときも、信長が自らもてなしの膳を運んできたといいます。
「急に来られたから、人手不足でな――」と、笑いながらもてなしました。
負けずに生き残るためには、何でもやるという信長の精神を、私たちは学ぶべきかもしれません。
■攻撃するのをやめて! と女性に言わせた
力添えを頼む
自分一人では、どうあがいても勝てない――。
そんなときは人の力を借りるのも手でしょう。ポイントは早めに力添えを頼み、敵の機先を制することです。
それをうまくやったのが、幕末の幕臣・勝海舟でした。
機先を制すことを、剣術の世界では「先の先をとる」といいますが、幼い頃から剣術に勤しみ、直心影流(じきしんかげりゅう)の免許皆伝となっていた勝海舟には、この考え方が身に沁みついていたのかもしれません。
彼は敵の多い人でした。本人は幕府のことを考えて動いているつもりなのですが、同じ幕臣たちからは“薩長の犬”と罵られ、嫌われていました。
勝の屋敷には、毎日のように刺客が訪れましたが、勝は自ら応対せず、華奢な女性に対応を任せていました。
「申し訳ございませんが、勝は不在でございます」
丁寧に頭を下げられると、目を血走らせてやってきた男たちは出鼻をくじかれ、なにも言えずにそそくさと帰っていったそうです。
うまく人を使って相手の機先を制し、刀を抜かずに勝つのが、勝海舟流のサバイバル術だったのです。
重要な局面でも、勝の戦術は効果を発揮しました。
1868年(慶応4年)、長く続いた徳川幕藩体制がついに瓦解(がかい)し、薩摩藩・長州藩を中心とした新政府軍が、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍を破り、江戸に押し寄せてきたときのことです。
新政府軍は、江戸城を武力で落とすつもりでした。それにより、時代が変わったことを内外に知らしめようとしたのです。
しかし、そんなことをされては、江戸の人々が大変なことになってしまいます。
その流れを阻止するため、勝海舟は13代将軍・徳川家定の御台所だった天璋院(篤姫)から、西郷隆盛へ手紙を出してもらっています。
もともと、島津家の姫君だった篤姫が徳川家に輿入れする際に、養父でもあった藩主・島津斉彬に嫁入り道具の手配を命じられたのが西郷でした。
そんな相手に、「私のいる江戸を攻撃するのをやめてほしい」と牽制させたのです。
勝は、14代将軍・徳川家茂の正室だった皇女・和宮からも、同様の手紙を出させています。相手は和宮の縁戚で堂上(どうじょう)公家の橋本実梁でした。彼は東海道鎮撫総督、ついで同先鋒総督兼鎮撫使に補せられて江戸へ向かった人物です。
西郷の闘志も、少なからず揺らいだのではないでしょうか。
■外国人も使って西郷隆盛を思いとどまらせた
勝海舟は外国人もうまく使って、西郷隆盛の機先を制しました。
外国人とは、具体的にいえば、イギリスの駐日公使パークスとその部下のアーネスト・サトウのことです。
後者のサトウは英国公使館付の通訳官(のち書記官)であり、幕末のイギリス人の中で“日本三大学者”の一人に数えられた人物です。
「日本の混乱を鎮めるためには、将軍が諸侯の地位に下り、帝(天皇)を戴く諸侯の連合体が政治を担当するのが妥当である」
という論文を、薩長同盟ができる前に書いていたほどの日本通でした。
パークスもサトウを自らの目や耳のように、大切にしていました。
土佐脱藩浪士・坂本龍馬や長州藩士・桂小五郎(のちの木戸孝允)も、サトウに会ってその卓見に耳を傾けていました。
前述した新政府軍を率いて江戸に向かう途中、西郷は横浜にある英国公使館にも気配りを示しています。
薩摩藩とイギリスとは、かつて薩英戦争を戦った間柄でしたが、その後、薩摩藩からイギリスに使節団を派遣したり、パークスが薩摩を訪れたりと、関係は良好になっていました。
西郷は、江戸で戦争になれば負傷兵が出るので、その折にはイギリス公使館にも医療行為でサポートしてもらいたい、との思いもあったようです。
■負けられない一戦で、他人の力を借りる
ところが、江戸総攻撃の話を聞いたパークスは、烈火の如く怒りました。
「あなたたちは、降伏した人間をさらに攻撃するというのか! 既に将軍は政権を返上し、謹慎して、恭順の意を示している。にもかかわらず攻撃をやめないのは、国際法違反になる。そんな不法行為の手助けなどまっぴらゴメンだ」
味方だと思っていたイギリス公使の言葉に、西郷もさぞ驚いたことでしょう。
実はこれには裏があり、あらかじめ勝がサトウを通じて、「戦争を回避する手助けをしてほしい」とパークスに頼んでいたのです。
こうした準備をしたうえで、勝は西郷との交渉の場に臨みました。西郷は江戸城を攻撃することを諦め、江戸は戦火を免れたのでした。
負けられない一戦で、自分の力だけではなく、他人の力を借りて目的を達した勝海舟の戦術は、現代のビジネス社会においても大いに参考となるのではないでしょうか。
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歴史家、作家
1958年、大阪市生まれ。奈良大学文学部史学科卒業。『日本史に学ぶ リーダーが嫌になった時に読む本』(クロスメディア・パブリッシング)、『歴史の失敗学 25人の英雄に学ぶ教訓』(日経BP)など、著書多数。
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(歴史家、作家 加来 耕三)
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