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まだこんなことやってるの!? 現役編集者が受験生の父となって再確認した、あの頃と変わらぬ国語入試問題のヒドさ

集英社オンライン / 2023年11月10日 16時1分

中学受験の勉強に励む子どもの国語の試験問題を見ていたら、驚いたことがある。なぜ、途中で投げ出したくなるほど、こんなにも異様に難解な文章を題材にしているのだろうか。

典型的な悪文を一生懸命読み解かなければならない、かわいそうな受験生

本稿の筆者である僕は長年にわたり、編集者兼ライター/コラムニストを生業としてきた。
毎日のように何らかの文章を綴っているし、他人の書いた文を整えることも多い。そんな仕事柄もあって、読書量は人一倍多いという自覚もある。
つまり曲がりなりにも文章のプロであることを前提に言わせてもらうのだが、この国の入試における国語の問題は、明らかに歪んでいる。
いや、病んでいると言ってもいいのではないだろうか。



来年に高校受験を控える我が子の、国語の勉強のお手伝いをしていると、憤りに近い感情を抱いてしまうことがある。
文章を読んだうえでいくつかの設問に答える問題で、題材となっている短い論説文の中には、途中で投げ出したくなるほど異様に難解なものがあるのだ。

illust AC

文章を読むのにも書くのにも慣れているはずの自分が、ゆっくり丁寧に読み進めても、何を言いたいのか、最後までさっぱり理解できないものさえある。
はっきり言ってしまえばそれは、読み手のことを無視し、文章本来の情報伝達機能を放棄した典型的な悪文だ。
そんな文章に付き合い、苦しまなければならない受験生が気の毒になってくるほどである。

それは今に始まったことではなく、僕自身が受験生だった数十年前も状況はまったく同じだった。きっと僕より前の世代も、同じようなものだったのだろう。
そして、背景にある事情についておおよその察しはつく。

ほとんどの受験生にとっての母語である“日本語”をテーマにした学科・国語の試験問題は、平易な文章では得点に差がつきにくい。
そこで合格・不合格を振り分けるため、どうしても得点に差をつけなければならない入試では敢えて、極めてわかりにくい文章がピックアップされるのだ。
特に、総じて学力が高く、優れた読解スキルを持つ受験生が多い難関校の入試では、その傾向が顕著になる。

入試問題で使われるそうした難解な論説文は、ほとんどの場合、すでに出版されている書籍や雑誌、新聞などから引用されたものである。
それらの書き手の名前を見ると、文章のわかりやすさと著者の知識・知能レベルが、完全に相関するわけではないということがわかる。
大変失礼ながら、読んでいるうちに書いた野郎をぶっ飛ばしたくなる大悪文の多くは、「先生」と呼ばれるような名のある人が書いているからだ。

illust AC

それは何かの道を究めた専門家であったり教職者であったり、はたまた実業の世界で相当な地位を得ている人であったりといろいろだが、社会に認められたそんな立派な人が、びっくりするほどわけのわからない文章を書いていたりするのである。
きっと自分の頭の中で物事を考えるのは得意でも、アウトプットする能力が低い人たちなのだろう。

試験の出題者がそうした難しい文章を、“悪文”と認識しているのかどうかはわからないが、良くも悪くも受験生を苦しめようという意図を持って選んでいることは明らかだ。

36年も前に出版された傑作小説「国語入試問題必勝法」でも槍玉に上げられていた

すでに思い切りディスってしまったので、入試問題として実際に使われた典型的な難解文章の具体例を挙げることは憚られる。
なのでその代わりに、作家の清水義範氏が1987年に発表した傑作小説「国語入試問題必勝法」から以下を引用しよう。

清水義範の名著「国語入試問題必勝法」

⚫️次の文章を読んで、後の問いに答えなさい。
積極的な停滞というものがあるなら、消極的な破壊というものもあるだろうと人は言うかもしれない。なるほどそれはアイロニーである。濃密な気配にかかわる信念の自浄というものが、時として透明な悪意を持つことがあるということは万人の知るところである。

エヒエルト・シャフナーはその窮極のテーゼに等身大の思考を持ち込んでセンメイな構図を示した。人間は道具の製作及び使用によって自己を自然と結びつけ、それによってひとは敗北主義から独断家になるわけである。粗密な気質の差によるものである。すなわちその経験に関して( )を蓄積することができないのは、いうまでもない。リアリズムが客観的、論理的であるとすれば、比喩的表現は直観的で、飛躍的、超論理的、( )であるように見ることも可能である。神は集団の象徴であり、宗教とは集団の自己スウハイにほかならないというE・デュルケームの議論はこのことによって証明されているといってもよいだろう。

いずれも清水義範・著「国語入試問題必勝法」(講談社文庫)より引用

「国語入試問題必勝法」は、パスティーシュ(作風模倣)の名手である清水義範氏が、国語教育と受験技術に対する鋭い諷刺を込めて書いた短編小説。
上で引用した文章は実在の論説文ではなく、清水氏がこの小説のために作った架空の難解論説文なのだが、さすがの名人芸で、とてもよくできている。いかにも国語入試問題に出てきそうな、わけのわからない文章である。
小説の主人公である受験生の一郎は、これらの文章を前に頭をくらくらさせたり、絶望的な気分になったりするのだ。

photo AC

「国語入試問題必勝法」が発表された1987年、まさに受験生だった僕はこの小説を読んで爆笑しつつ、登場人物の家庭教師が一郎に示した、国語の難問を解くための似非テクニックに、結構真剣に共感したりしたものだ。

そして現在、我が子が塾の宿題として家に持ち帰り、ウンウン唸り苦しみながら解こうとしている国語の問題集を見ていると、あの頃と何も変わってないのだな、かわいそうにと思ってしまう。

このままでは、言葉の持つ美しさやパワーを子供たちが信じられなくなる

とはいえ、入試問題として難解な論説文を読み解かせることが、まったく無意味というわけではない。
抽象的かつ極めて難解な文章を入試問題とすれば、言語に対する認知能力が高い受験生に有利な状況が生まれる。
受験生の能力を測る選別手段としては、有効に働いているのだ。

だが、あまりにも難しすぎる文章の問題は、テストのためのテスト、あるいは学問のための学問にしかなっていないという批判も生じえるだろう。
普通の人には到底理解できない難解な文章で人を選別してしまったら、「社会で必要とされる実践的能力を育成する」という、学校教育の本来の目的から外れてしまうことになるからだ。

超難文を解析することが試験の中心になると、受験生たちは本質的な理解や知識の深化を目指すより、問題解決のための小手先のテクニックを習得することに焦点を置くようにもなる。

教育が本来推し進めるべきである、批判的思考や創造的問題解決法の育成ではなく、単に試験に対応する技巧を磨くことが優先されるとしたら、教育の在り方としては大いに疑問が残る。
まさに小説「国語入試問題必勝法」が風刺した世界観なのである。

photo AC

また、難文が国語試験の中心になると、多くの受験生は過剰なストレスを感じるようになるだろう。
長期にわたるそうしたストレスは、子供の心の健康に悪影響を及ぼすだけでなく、国語学習への意欲の喪失にもつながっているのかもしれない。
本来、言語はコミュニケーションツールだが、難解で解釈困難な文章に苦しまされ続けると、言葉が持っている美しさやパワーを信じられなくなってしまうのだ。

あ〜、だめだだめだ。このへんでやめておこう。
この手の問題をこれ以上深く考えていくと、自分の文章まで回りくどくてわかりにくく、抽象的で偏屈なものになってしまいそうだ。

とにかく、難解な文章の解釈も重要なスキルだが、それに依存した試験による弊害は無視できない。
国語の入試問題の正しい在り方について、すべての受験関係者にもう一度よく考えてもらいたいものだ。

文/佐藤誠二朗

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