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「エジプト」現地在住・世界史講師が語る深い魅力 一度は訪れたい「世界史的絶景の宝庫」

東洋経済オンライン / 2024年4月4日 19時0分

前30年にはローマに支配され、ローマの東西分裂後には東ローマ帝国の領域に入りましたが、7世紀初めに成立したイスラーム教が教団国家を設立し、領土拡大を図り、シリア・エジプトはイスラーム勢力の支配下に入りました。

オスマン帝国の支配下へ

10世紀半ばに北アフリカから侵攻してきたファーティマ朝がカイロを建設し、そこに世界最古の大学とされるアズハル学院が設立されました。その後、イスラーム文化の中心としてカイロは大繁栄します。

12世紀に建国されたアイユーブ朝の建国者サラディンは、十字軍が建国したイェルサレム王国を破り、聖地イェルサレムを奪回しました。これに対して行われた第3回十字軍との戦いでも勝利をおさめたものの、キリスト教の捕虜の返還やキリスト教徒の巡礼を認めるなど、寛容な姿勢を貫いた王として有名です。13世紀にトルコ人奴隷(マムルーク)によって建国されたマムルーク朝では、紅海からアラビア海そしてインド洋にかけて、カーリミー商人によるダウ船交易が栄え、エジプトに富をもたらすも、大航海時代に入りポルトガルがアジアに進出すると、アラビア海の制海権は奪われ、経済的に衰退していきました。

16世紀初め、オスマン帝国がマムルーク朝を滅ぼしてエジプトを支配すると、エジプトは、オスマン帝国全体を支える穀物供給地として重要な役割を持つようになりました。さらに、スエズ地峡から紅海・アラビア海へ抜けるルートが注目されるようになり、エジプトの重要性は増していきました。そのようなタイミングで、イギリスのインドへの航路遮断を狙った軍人ナポレオンがエジプト遠征を仕掛けます。しかし、オスマン皇帝によって派遣されたアルバニア人傭兵隊長のムハンマド=アリーがこれを撃退。以降、彼はエジプト総督となり、19世紀半ばには事実上独立を成功させました。

ムハンマド=アリーは、トルコの軍人です。彼の名前を冠したモスクは、アラブ式ではなくトルコ式の、エジプトでは珍しいモスク。

植民地化と脱植民地の時代

1860年代の綿花価格高騰により、エジプトに経済的な大繁栄がもたらされました。しかし70年代の世界的不況により財政難に陥り、イギリスの保護国となります。脱植民地への歩みと反植民地主義への影響を振り返りましょう。

シナイ半島の西端にスエズ運河が開通すると、ますます世界経済におけるエジプトの重要性が増していきました。しかし、1870年代の世界的な不況も相まって財政難に陥ると、エジプト政府は保有するスエズ運河会社の株をイギリスに売却してしまいます、これを機にイギリスによるエジプト進出が始まり、1881年に起きたウラービー運動(反専制・反英)の鎮圧後、イギリスの保護国となりました。

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