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「年金の神様」が失脚、次官を目前に厚生省を去る 年金を巡る攻防の全記録『ルポ年金官僚』より#3

東洋経済オンライン / 2024年4月17日 10時30分

古川は実は、安保闘争に一度だけ参加している。国の方向が変わろうとする時に、自分が何のアクションも起こさなくていいのか、それは自己否定ではないか、と感じたからだ。昼休みにオンボロ庁舎を抜け出し、目と鼻の先の日比谷公園から出発するデモ隊に合流した。国会方面、銀座方面の二手に分かれており、バレたらクビになるだろうから銀座方面に向かった。

若気の至りであり、古川は厚生省退官直前まで周囲に黙っていたというが、当時の若者の行動としては珍しくない。

運動の中心となったのが、総評(日本労働組合総評議会)である。1950年に結成された日本最大の労働組合の中央組織で、「昔陸軍、今総評」と称され、その頃は絶頂期であった。岸退陣の翌日、総評は反政府エネルギーを拠出年金反対闘争に引き継ぐ方針を決定。

ただ古川が気を揉む必要はなかった。小山局長自ら、矢面に立ったためだ。

岸の後に総理に就いた池田勇人が地方遊説中、反対派のデモ隊に取り囲まれる騒ぎがあった。そのニュースを部下から聞いた小山は、顔色ひとつ変えずこう語ったという。

「君らも苦労しているだろうが、お互いがんばろう。こんな問題のために次官や大臣に心配をかけてはいけない。局長限りの責任と判断で何とか解決したいね」

7月29日には、組合員約500人を動員して、厚生省に集団陳情が行われた。

小山は、オンボロ庁舎の国民年金課、福祉年金課の前にある部屋に案内した。腰かけると、バネのビューンと音がするソファがあり、それに互いに座って対峙するのである。運動員が小山を取り囲み、がなり立てるから、交渉にならない。小山はトイレに立つこともできなかったが、逃げ出すことはなかった。

1961年4月1日、火だるまの状態になりながら、拠出制の国民年金はスタートした。

なぜ、国民皆年金という国家的プロジェクトを、一糸乱れぬ形で進められたのだろう。2つの要因が考えられる。まずは役人たちの気概だ。

古川は千代田区麹町のオフィスでこう回想した。

「いまは官邸からやれと言われて官僚はシブシブやってるように見えるけど、あの頃はみんな意気に燃えていた。俺たちが年金制度をつくるんだと。もとより制度の大枠を決めるのは政治で、たくさんある白地部分を行政官が固めていく。やりがいがありました」

古川の5期先輩にあたる吉原健二はこう語る。

「当時の嫌な思い出がないんですね。厚生省というか、私どもがやりたいことができた。国全体の中で社会保障の予算のウエートは非常に小さくて。これから社会保障の制度を整備していく時代だった」

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