1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 社会

「年金の神様」が失脚、次官を目前に厚生省を去る 年金を巡る攻防の全記録『ルポ年金官僚』より#3

東洋経済オンライン / 2024年4月17日 10時30分

焦った神田厚相は武見会長と会談し「4組合も新料金に一本化」と合意するものの、今度は健保側が反発。首相官邸で、官房副長官・竹下登立ち合いのもと、神田や小山、健保幹部との会談も行われた。結局、東京高裁が「東京地裁の原決定を取り消す」との決定を下し、小山は、新料金一本化をする通達を出した。

混乱の責任を問う形で、神田は小山と次官・大山正を更迭。自身は6月3日の内閣改造をもって辞任した。

小山は、次官の座を目前にして厚生省を去ったのだった。

小山は1972年9月、持病を悪化させ、心不全により死去。57歳の若さであった。

ベスト&ブライテストの生きざま

「小山学校」の〝先生〟が失脚した一方、〝生徒〟たちは省内の枢要なポジションを占めていく。

小山の右腕・高木玄は社会局長、社会保険庁長官と順調に出世の階段を上りながら、悲劇に見舞われる。京都大学山岳部の長男が、ヒマラヤで遭難、死亡したのだ。高木は死亡確認の旅に出る際、周囲に落ち込んだ様子を一切見せなかったという。

長男の死から10カ月後の1975年7月、高木は次官に就任した。

その他、「学校」当時の庶務課長・坂元貞一郎、係長・幸田正孝、主査・吉原健二はそれぞれ厚生次官に、係長・山崎圭は環境次官になった。紛れもなく、厚生省のベスト&ブライテスト(最良にして最も聡明な逸材)の集合体であった。

古川はそんな先輩官僚の生きざまを糧にして、エリート街道を突き進む。

岸信介首相に抗議する安保闘争に古川が参加したことは前述したが、1987年に岸が死去した際、巡り巡って古川は首席内閣参事官として内閣・自民党合同葬の事務方責任者となった。娘婿で、安倍晋三の父である安倍晋太郎から「参事官、いろいろご苦労様。ありがとう」と声をかけられ、長年の胸のつかえが取れたと、古川は懐古している。

1993年7月、古川はついに次官の座に就いた。政権交代が起き、宮沢喜一、細川護熙、羽田孜、村山富市と総理はコロコロと替わった。村山は古川の手腕を評価し、古川は次官を約1年半で勇退すると、官僚機構トップの官房副長官に抜擢される。その後、小泉純一郎政権まで8年7カ月、5人の総理に仕えた。当時の最長在任記録であった。

入省試験で弾かれた農家の長男を掬い上げた小山進次郎の眼に、狂いはなかった。

元霞が関トップの“遺言”

年金ほど長い間「政局」に使われ続けた制度は他にない。激しい攻防といえば消費税が挙げられようが、1980年代後半からのことで、それも散発的なものだ。年金は制度発足以来、「少なくとも5年ごと」の法改正が義務付けられている。現役世代なら保険料の「出」、高齢者なら年金受給額の「入り」という金に直結する問題だから、改正ごとに大きな政治パワーが必要となる。

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

複数ページをまたぐ記事です

記事の最終ページでミッション達成してください