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「10・19」は思い出としては何にもない 9分間の抗議は道義的な部分が原因・有藤通世さん プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(36)

47NEWS / 2024年3月30日 10時0分

1980年6月の近鉄戦で2ランを放つ有藤通世さん=川崎

 プロ野球のレジェンドに現役時代や、その後の活動を語ってもらう連続インタビュー「名球会よもやま話」。第36回は有藤通世さん。1988年のパ・リーグ優勝争いが懸かったロッテ―近鉄のダブルヘッダーは試合日から「10・19」と呼ばれ、ファンの記憶に焼き付いています。ロッテ監督だった当事者から、問題の「9分間の抗議」に至った経緯を改めて聞きました。(共同通信=中西利夫)

 ▽チームを出ていきたい人を「一緒にやろう」とは引き留めない

 ロッテ入団2年目は日本シリーズで巨人に負けて、翌71年の春のキャンプをアメリカでやらせてもらった。サンフランシスコ・ジャイアンツのキャンプ地です。日本のキャンプ地とは設備的なものが全然違う。オープン戦もメジャーの人たちと一緒にやらせてもらって、メジャーはいいなあと思った。こういうところで野球をやってみたいな、知りたいなというのが芽生えた。86年に現役を引退した時は、2年ぐらいアメリカに行って野球を見たり、現場に入れるなら入って勉強したりしようかと思っていた。


1969年にロッテへ入団した当時の有藤通世さん

 ところがロッテから、監督をやってもらわないと困ると。ロッテの場合はコーチまでは球団代表クラスで決められるが、監督だけはオーナーと球団社長が決める。やめてくれというわけにはいかない。引き受けたのが僕の野球人生の中で失敗ですね。あの時の自分は監督の器じゃなかった。チーム運営といったところ、全てですね。コーチと会議をして準備し、キャンプとオープン戦を過ごして公式戦にどう入るか。8月ごろになったチームはAクラスにいるのか、いなければどう動くのか。そういう判断というかチームへの配慮とか、僕はまるっきりできていなかった。
 集団を使って勝つという作業なんか、やったことないわけですから。現役最後の年も自分がどうしたら打てるか、どうしたら守れるかしか考えてない。コーチだったらこうする、監督だったらこうするという頭は全然なかったです。そんな器用な男じゃない。普通、監督とかコーチで、というのであれば、9月に入ったら何かあるでしょ。それすら何もない。会社から「(現役を)辞めてどうしますか」というのも一切ないわけですから。まあ聞かれても、まだ考えてませんと言ったでしょうけどね。


1977年10月、阪急とのパ・リーグのプレーオフ第3戦で本塁打を放つ有藤通世さん。首位打者を獲得したシーズンだった=仙台

 人事を上がいつ決めたかは分からない。そもそも稲尾和久監督が辞めると思ってなかったから。辞めるような成績(2位、2位、4位)じゃなかった。契約がたぶん3年だったのではないかな。それで契約切れでという始末の付け方では。詳しい話は分からない。選手のこともトレードのことも、僕の耳には一切入ってきてない。落合博満は稲尾さんと近かったから、稲尾さんが辞めるんなら俺も出ていくという話じゃないですかね。そこらの話し合いは会社とできてたのでは。落合との不仲のうわさ? 全然ない。先輩と後輩という仲だけ。もめることがないです。トレードにも一切タッチしていない。落合は僕に後ろめたいところがあるかもしれないですけど、僕はない。こういう性格やから言わないしね。出ていきたい人を「一緒にやろう」と残らせてもね。


1985年5月頃の有藤通世さん。翌86年限りで現役を引退した

 ▽アウトと完全に分かっていても、選手の訴えに監督は応える

 「10・19」では第2試合で佐藤健一(第1試合は4安打)が1打席目にデッドボールを当てられた。佐藤がもだえてるんですよ。そこへ近鉄の仰木彬監督がベンチから出てきて「おまえ休めよ」というような言葉をかけたことが頭にきた。僕らは大概、縦社会ですから先輩に対して、この野郎と思うことがないんですよ。でも、そんな言い方ないやろと。人間としての道義的なものじゃないでしょうか。謝りに来たんだったら、悪かったの一言でいいんですよ。二の句、三の句はいらない。謝る言葉があっても、ああいう言葉をかけるべきじゃない。言葉というのは人を傷つけるなと思いました。仰木さんにしても必死だった。何げない言葉でしょうけど。それで何かあったら、やってやろうと思った。でも、こういう性格やから忘れていた。あのセカンドベースでの時まで。


ロッテの新監督に就任し、1986年11月の秋季練習で有藤通世さんは自らノックで若手を鍛える=静岡県磐田市のヤマハ総合グラウンド

【4―4で迎えた九回、ロッテが無死一、二塁の好機を得る。近鉄の投手、阿波野秀幸の二塁へのけん制球は高く浮くが、ジャンプして捕球した二塁手の大石大二郎が走者の古川慎一にかぶさるように着地。その際、古川の足がベースから離れており、タッチアウトと判定される】

 古川のプレーはアウトはアウトなんです。僕らも見てて完全に分かる。(三塁へ)行きかけてアウトやから。でも、選手が訴えてたら僕は抗議に行かなければいけない。プッシュ(走者を押し出した)やろと言って、プッシュじゃありませんという話を(審判員と)やりとりしていた。そうしたら、また仰木さんが出てきた。(第2試合は4時間の規定時間があり)時間を気にしてたと思う。僕は気にする立場じゃないからね。それで佐藤の一件を思い出した。よし、やってやろうと思った。それで、ちょっと長引かせて帰ってきた。そうしたら審判員が説明しなかったから、また出て行って、お客さんに説明しろ、と。それが1、2分かかったんじゃないですか。まあ、そんなもん、全然気にしてないですけど。(時間切れ引き分けで優勝を逃した)近鉄の人たちにしてみたら、あの馬鹿野郎となるんでしょう。その悔しさがあったから、近鉄は次の年に優勝することになったと思います。


1988年10月19日、ロッテ-近鉄最終戦で優勝が絶望となり、頭を抱える近鉄監督の仰木彬さん=川崎

 ▽観客がいっぱいでびっくり。でも、もっと驚いたのは…

 あの時、抗議を9分もしました? 自分では、そんなに長いつもりはなかった。仰木さんが出てこなかったら4分ぐらいで帰っていた。近鉄にしてみると、もう1イニングいきたかったでしょうね。僕は近畿大出身で、その年のオフも監督や大学の先輩に会いに大阪に行った。そしたら、ぼろくそに言われましたよ。街を歩いていても「有藤の馬鹿野郎」と。飲み屋に行ったら、あんたえらいことするなと、男から因縁をつけられた。
 僕が1試合目の始まる前に選手に言ったのは、たまたま近鉄の方が、うちに勝てば優勝というところまできて、マスコミの人たちにしても世間の野球ファンにしても興味持って見てるから、自分の名前を上げる野球をしろと。一番気にしたのは高沢秀昭の首位打者争い。タイトルを取らさなきゃいけない。高沢に「取りたきゃ取れ。使うぞ」と言った。1本でも打ってくれればいいなと思ったら、打ってくれましたからね(高沢は第2試合に2安打をマーク。最終的に阪急の松永浩美を1厘差抑え、打率3割2分7厘で首位打者を初受賞した)。


2010年11月の日本シリーズ第4戦で始球式に登場した有藤通世さん=千葉

 「10・19」は苦い思い出でも、いい思い出でもない。何にもないです。思い出として語るんであれば、川崎球場にお客さんがよく入ってくれたなと。先輩の言葉によって頭にきて、変な行為をしたというところになるんですかね。しかし、あれだけの人が集まるとは(観衆3万人)。第2試合の途中から、ものすごく人が増えました。僕のところから見える客席は外野の右中間からネット裏まで。こっち(一塁側ベンチ)の上は見えなかった。古川の抗議に出て行った時に、いっぱいでびっくりしました。でも、その時の1試合目と2試合目の間に、阪急が身売りしたというニュースが来た。そっちの方がびっくりしましたね。

    ×    ×    ×

 有藤 通世氏(ありとう・みちよ)高知高―近大からドラフト1位でロッテ入りした1969年に新人王。プロ野球で初めて新人から8年連続20本塁打以上をマーク。77年は首位打者。三塁手でベストナイン10度。名球会入り条件の2千安打は85年7月にパ・リーグの大学出身選手で初めて到達し、86年に引退した。通算2057安打、348本塁打。87年からロッテ監督を3シーズン務めた。46年12月17日生まれの77歳。高知県出身。

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