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「親友の“裏アカ”投稿に傷つけられている」雨宮まみの“穴の底でお待ちしています” 第25回

ココロニプロロ / 2015年7月17日 18時5分

なんだか不思議だなと思うのは、私が彼女と全くの赤の他人で、インターネットの中でのアイコンと短文が彼女について知っているすべてだったなら、きっとすごく面白かっただろうなと思うことです。知らない人の知らない日常はもうフィクションですよね。そうやって味わうのだったら最高に魅力的な文章だっただろうし、実際に私もそうやって見知らぬ人のブログやツイッターを楽しんでいます。エッセイを読むときも同じです。

彼女は自分や周囲の人間の個人名は一切出していませんし、住んでいる地域もおおよそしかわからないようにしてあります。でも、私のように読む人が読めばわかってしまうような投稿ですし、読んだ人の気持ちについて想像してみることはできるはずです。そうした可能性を彼女がどこまで考えているのかはわかりません。見つからないだろうと思っているなら少し呆れてしまうし、見つかってもいい(傷つかないだろう、または、傷つけてもいい)と思っているなら正直怖いです。

でも、堅苦しい言い方ですが彼女の表現の自由にケチはつけられないし、私が見なかったことにすればいいだけなんですよね。それも難しいから困ってしまいます。2015年、近未来だなあ、と思う毎日です。
(みどり/20代前半/女性)

(※投稿内容を一部、読みやすいように編集させていただきました。)

はい、とりあえずそのスマホを伏せていただきましょうか。ほんのちょっとの間ですから、我慢してくださいね。スマホに塩水こぼしたらヤバいとよく聞きますので、ソルティードッグとか出しちゃいますよ。これでスマホを表に向ける勇気、なくなりましたよね。

まず、私が懺悔しなくてはならないのですが、みどりさんのお話、すごく面白いと思ってしまいました。

人は誰でも、接する相手によってある程度人格を使い分けています。友人に見せる顔、恋人に見せる顔、家族に見せる顔、仕事で見せる顔……それが全部同じだという人は珍しいでしょう。「この相手になら、ここまで踏み込んでもいい」とか、「ここまで自分をそのまま出してもいい」とか、逆に「自分の意見は隠しておかなければ」とか、そうした判断を私たちはほぼ無意識的に行っています。

例えば、私は昔から「つきあっている人の友達に紹介される」という儀式が非常に苦手で、ほとんどやったことがありません(彼氏がいた時期が少ない、ということも関係していますが……)。これは「どういう人格でいればいいのかわからない」ことが大きな理由です。どういう「彼女」でいることを要求されているのかがわからないのです。そこで「いつもの、個人としての自分」でいることができないし、人前ですから「彼氏といるときの自分」でいることもできない。自分が接する相手が二種類、同時に存在することで、場も二重になってしまうのです。結局、それに慣れることができないまま、今まで来てしまいました。

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