「私は私のために料理をする。そこにとりわけ感情はない」小林聡美のシンプルな日々の食卓
CREA WEB / 2024年3月30日 11時0分
コロナ禍前から半分隠居状態、同居の猫とも少々ディスタンスあり気味な関係。たまに出かけることもあるが、基本的にひとりで過ごす。事件と呼べるほどのことは何も起きない極めて平穏な日々。
そんな生活の中でふと見つけた「茶柱」のような、ささやかな発見や喜びを綴った、小林聡美さんの新刊『茶柱の立つところ』。
本書の中から、小林さんのインタビューを担当されたライターさんが「この文章を読めただけで、この先も大丈夫だ、と思えました」という感想をくださったエッセイ「パンを買いに」を特別に公開します。
パンを買いに
パンを買いに家をでる。目的はそれだけだ。
近所に、週の半分しか開いていない小さなパン屋があって、またそのパン屋が人気で、ぼんやり午後遅めに出かけると、「売り切れ」の札がちんまりとぶら下がっている。お目当ては小ぶりな食パンだ。ややずっしりしていて、生地の香りが芳ばしい。小ぶりと言っても、ひとりで食べきるには一週間はかかる。お米も好きなので、朝ごはんに毎日交互に食べたとすると、次にパン屋に出向くのは二週間後ということになる。もちろんパンを二週間もその辺に置いていたらカビが生えるので、半分ほどスライスしてから冷凍庫へ。本当は新鮮なうちにむしゃむしゃ食べたいところだけれど、ひとりの食卓には少々辛抱が必要だ。多すぎて食べきれないとは、なんという贅沢な悩みだろう。
子どもの頃、夕方仕事から帰った母親は、両手に満タンのスーパーの袋をいくつもぶら下げていた。五人家族は、その満タンの袋の中身をあっという間に平らげた。多すぎて食べきれない、ということはなかった。むしろ剝かれたリンゴの数で、きょうだい喧嘩が勃発するような油断できない食卓だった。
ひとり暮らしをするようになって、自分の好きな物を好きなだけ食べられることは嬉しかったし、料理も、今思えばおままごとのようなものだったけれど、それなりにやった。けれど、売られている大抵の食材はひとり分の料理には多すぎて、使いきれず処分することもしばしば。その頃は、今より“もったいない”という概念が世の中的に薄かった気がするが、私も、食べ物を無駄にする後ろめたさはあったものの、その食材を上手に使いきる知恵はなかったのだった。というと、いかにも今は知恵がついたような言い回しだが、やっぱり知らないこと、やったことのないことがたくさんある。大好物だった母親の作る鶏の炊き込みご飯の作り方も知らないし、おはぎも作ったことがないし、キムチを漬けたこともない。それでも若い頃は、いつか誰かのために料理することになるのだ、と心のどこかで思っていた。それを当然の使命のようにも思っていて、美味しいものを作れるようにならなければ、という向上心もあった。食卓の原風景も五人家族の賑やかなものだし、自分にもそういう任務が将来やってくるのだ、と。しかし、そんな任務はやってこなかった。それはそれで、ちょっと物足りない気もするけれど、心理的にも肉体的にも楽でありがたいというほうが、今は勝っている。毎日毎日家族のために食事を作らねばならない暮らしを、もし、私が今していたら、絶対に寿命が十年は短くなっていると思う。
私は私のパンを買う
私は私のために料理をする。そこにとりわけ感情はない。お腹が空くから料理する。面倒くさい時はスーパーで買う日もある。けれども、たいてい味が濃くてお腹が疲れてしまう。やはり自分の味付けが体にあっているのだろう。といっても、最近は味付けなどと気取った単語を使うのも憚られるような、最小限の手間で作れるものばかりだ。朝のスクランブルエッグは、塩も使わない。バターの風味と卵の味で、十分美味しいことに気づいた。蒸し野菜や肉や魚も塩と胡椒くらいなもの。あれこれと調味料を使わないぶん、素材そのものの味や香りがよくわかる。それがいい。しゃぶしゃぶ用のラム肉をくるくる丸めて包んだだけの餃子もなかなかだった。手の込んだものは外食で、と決めて、家では徹底して簡潔に。ここ近年のコロナウィルスのせいで、家でひとりで食事する時間が圧倒的に増えたのも、この超簡潔料理に拍車をかけた要因といえるだろう。
かと思えば、おやつをわざわざ手作りしたり、果物をジャムにしたり、豆を煮たり、そういう作業はまったく苦にならないのだった。それらは言ってみれば余暇のようなもので、生命の維持に直接関係ないからだろうか。それに「こんなに砂糖を使うのか」とか「こんなに嵩が増えるとは」など、地味な発見があり、まるで実験をしているような愉しさだ。一応、既存のレシピを参考にはするけれど、要領がわかってくると、次は分量の配分に自分なりの工夫を加えてみる。思いがけず絶品になる時もあるけれど、絶望的な結果になることもある。一度、レシピに背き蕎麦粉百パーセントで焼いたクッキーは、京都銘菓八ツ橋の百倍の硬さで、文字通りまるっきり歯が立たないがっちがちの仕上がりになった。でも捨てるのは悔しいので、口に含んで酢昆布のように馴染ませてから、飲み込んだ。ベランダで二、三の野菜を育てて食べるというのも、同じく実験的な愉しさだ。誰にも急かされず、生命の維持にも直接関係のない、切羽つまらないこれらの活動は愉快である。
毎日ひとりっきりで食べる食事は、なんの映えもないし、地味だし、さみしい。こんな食事の時間がこの先、二、三十年も続くと思うと、気が遠くなるので考えないようにする。家族がいても必ずしも食事は団欒のひとときではないだろうし、自分の食べたくないものを頑張って作らなくてもいいのはありがたい、というふうに言い聞かせる。そして一方では自分の今の境遇が、とても気楽だという正直な気持ちも。今の私は、生きるために食べている。それを侘しいとは思わない。なぜなら、私は私の大好きなパンを買いに行くことができるのだから。
小林聡美(こばやし・さとみ)
1982年、スクリーンデビュー。以降、映画、ドラマ、舞台で活動。主な著書に『ワタシは最高にツイている』『散歩』『読まされ図書室』『聡乃学習』『わたしの、本のある日々』など。
[衣装クレジット]
ブラウス 63,800円、ジャケット 82,500円、パンツ 63,800円/すべてミナ ペルホネン(03-5793-3700)
文=小林聡美
写真=佐藤 亘
ヘアメイク=福沢京子
スタイリング=藤谷のりこ
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