「生涯現役」が口癖のフリーランス夫がコロナにり患し収入激減、50代夫婦に訪れたあわや老後破産の危機
Finasee / 2025年1月24日 19時0分
Finasee(フィナシー)
夜も更けたころ、一美は書斎の扉をノックした。ゆっくりと扉を開けると、デスクに向かう夫の裕の背中が見える。音楽か、あるいはレコーダーのインタビュー音声でも聞いているのだろう。最近になって一段と白髪の増えた頭には、ヘッドホンがつけられている。
一美は書斎へ入り、裕の右側から温かいお茶の入ったマグカップを置く。一美に気づいた裕はヘッドホンをずらして顔を上げた。
「私、もうそろそろ寝るけど、まだ仕事?」
「ああ、もう少しだけ、きりがいいところまでやって寝るよ」
「そう、あんまり無理しないでよ? 明日も早いんでしょ?」
「明日は朝から打ち合わせが2件、午後はトークイベント出て、そのあと配信番組の収録だから、帰りはけっこう遅くなるよ」
裕はいきいきとした表情で言って、一美の入れたお茶で唇を湿らせる。
「だったら、早く休まないと。もう若くないんだから」
「分かってるよ。だけど俺は生涯現役。だからこうやって動き続けていかないと」
「そうね」
一美はあきれて肩をすくめ、書斎を後にして寝室へ向かった。
夫の裕はもともと中堅の出版社で働くごく普通の会社員だった。忙しさに比べて給料が低かったこと、年を重ね、現場ではなくマネジメントを任せられるようになったこと、その他いろいろなことが重なって、裕は10年ほど前にフリーランスのライター・編集者として独立した。今はもう大学を卒業して働いている息子の達郎も当時はまだ中学生だったから、いくら一美がパートをしていると言っても、思い切った決断だったと思う。
一美としても不安がなかったわけではないが、裕の仕事は順調だったと傍から見ていても思う。
独立直後こそ仕事と収入が激減したものの、出版社にいた頃の裕の仕事ぶりを知る人たちから仕事の依頼がくるようになり、独立した翌々年にはライターとして本を出版することができた。以降はネットテレビの配信番組などに出演する機会も増え、収入はサラリーマン時代の倍以上になった。
何より、サラリーマン時代よりも遥かにいきいきと仕事をしているのがいい。懸命に、そして楽しそうに働いている裕を見ると、子育てを理由に仕事を辞めてしまったことを少しだけ後悔した。
とはいえ、一美には懸念もある。
フリーランスは言わずもがな不安定だ。毎月固定の給料がもらえる会社員と違い、働いた分がそのまま収入になる。それは身体と時間が許す限り青天井で稼げることを意味するが、逆に何らかの理由で働けなくなれば、保障される収入が1円もないということでもある。
おまけに「生涯現役」と口癖のように言っている裕はいっときまで国民年金の保険料を払っていたものの、ここ最近は年金の支払いをやめ、督促状も無視していた。裕にはそうする理由があった。
「どうせ生きてる限り働くし、フリーランスに定年はないからな。年金なんて払うだけ無駄だし、自分たちの老後は、自分で貯蓄して備えたほうがいいだろ」
言い分は分からなくもない。だが、裕も一美も50代になり、大きな病気こそないものの、目が見えにくくなったり、理由もなく膝が痛んだりするようになった。今のところは元気に働けているが、年齢的にいつなにが起きてもおかしくはない。
もちろん貯蓄はあるが、備えをしておかなくていいのだろうかという気持ちが拭えなかった。
コロナにり患してしまいそれは、裕がネットテレビに出演した日の夜のことだった。
仕事先から帰宅すると、身体がひどく熱っぽいと言ってぐったりとソファに座り込む。体温を測らせてみると、なんと39度を超えている。慌てて市販の風邪薬を飲んでベッドに潜り込んだが、翌朝になっても熱は下がらない。しかも、激しく咳き込み、関節や筋肉が痛むと訴えた。
立ち上がって歩くことも難しく、慣れない一美の運転で病院へ向かった。診断の結果は新型コロナウイルス。息子を含めた家族3人、2021年ごろの流行時は誰一人としてり患することなく乗り切っていたから、まさかここでと驚いた。
夫の闘病生活は難航した。2、3日すれば熱も下がるというネットの情報とは裏腹に、薬を飲んでもすぐにはよくならず、1週間近く高熱が続いた。その後は快方に向かったものの、裕のからだには新型コロナウイルスの後遺症が深く刻み込まれていた。
「はかどってなさそうね……」
朝11時過ぎという中途半端な時間帯に、裕が書斎から出てくる。コロナにかかってから表情はずっと沈んでいる。
「考えがまとまらないんだよ。書くスピードも明らかに落ちてるし」
裕の仕事の詳しいことは知らないが、コロナが治って何日かした夜、書斎の扉の向こう側で夫は誰かにしきりに謝っていた。聞き耳を立てていたわけではなかったが、どうやら思うように執筆がはかどらず、〆切を落としたらしかった。
「仕方ないわよ。まずはリハビリよ、リハビリ」
一美は努めて明るく声をかけた。大変なときだからこそ、支えたいと思った。
「そうだな。ちゃんと回復すれば、また前みたいに書けるようになるよな」
「そうよ。裕なら大丈夫。お茶入れて、持っていくから。お昼ご飯まで頑張っておいで」
「ああ、ありがとう」
裕は大きく伸びをして、書斎へ戻っていった。だが一美の目に、裕の背中はひどく小さく映っていた。
下がる収入裕の苦悩は、そのまま収入に現れた。
執筆に時間がかかるようになり、裕は今までのペースで原稿依頼をこなすことができなくなった。引き受けた以上、〆切に遅れれば先方に迷惑がかかる。だから裕は、不本意ながら仕事の量をセーブするしかなくなった。
しかしフリーランスは働くほど稼げる代わりに、働かなければどんどん収入が減っていく。平均して50万近くあった収入は霞のように消え、家計との収支はあっという間に赤字になった。
パートを増やした一美のほうが収入が高い月さえあった。自分たちの老後は自分たちで何とかするといって蓄えていた貯金は確実に減っていった。同時に、すり減る貯金は裕と一美の神経までもを確実に摩耗させていった。
ある日、一美がパートから帰ってくると、裕がリビングのソファで寝ていた。テーブルにはウイスキーの瓶とグラスが置かれている。12月に入っているというのに、暖房もつけず、裕はずいぶんと薄着だった。
「こんなところで寝てると風邪引いちゃうよ」
一美が優しく身体を揺すると、裕はゆっくりと目を開けた。
「なんだ、一美か」
「寝るなら寝るで、シャワー浴びておいでよ。こんなところで寝てたら風邪引くよ」
「うるさいな。子どもじゃあるまいし、んなこと分かってんだよ!」
裕がいきなり大声を出し、一美の手を払いのけた。
「余計なお世話だ! ほっといてくれ!」
裕はそう吐き捨てると、ふらつきながら自分の部屋に行ってしまった。思うように仕事ができず不機嫌なのは分かっていたが、こんな振る舞いをする人ではなかった。ちょっと偉そうなところはあったが、基本的には優しい夫だった。
ずっと支えてきたつもりだった。それなのに、自分がどうしてこんな仕打ちを受けなければいけないのか。テーブルに置かれたウイスキーの瓶の前で、一美はひとり涙を流した。
●荒む裕、窮状に頭を悩ます一美。そんな二人の現状を知ってか知らずか、離れて暮らす大手銀行勤めの息子・達郎が帰ってくる。達郎は二人の救世主となるのか……。後編【「好き勝手やらせすぎだよ」フリーランス夫の不調で老後破産の危機に瀕した50代夫婦を救った”大手銀行勤め”の息子の行動】にて詳しくお届けします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
梅田 衛基/ライター/編集者
株式会社STSデジタル所属の編集者・ライター。マネー、グルメ、ファッション、ライフスタイルなど、ジャンルを問わない取材記事の執筆、小説編集などに従事している。
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