1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. スポーツ
  4. スポーツ総合

28年間のスカウト人生は岡田彰布の父親にワインとアジの開きを手土産にしたことから始まった【伝説の凄腕スカウトは見た!】

日刊ゲンダイDIGITAL / 2024年4月5日 9時26分

写真

ドラフト当時の岡田彰布氏と両親(C)日刊ゲンダイ

【伝説の凄腕スカウトは見た!】#1

「僕は好きな選手しか取らなかった。好きだからいいなと思う。素直にストレートに行く。最後の会議で推すか推さないか、それしかないんです」

「選手は取ってみないとわからない。取らないと何も始まらない。スカウトである以上、会議で指名しても入団するのかしないのかを断言できないといけない。他のスカウトから指名を反対されても、きちんと魅力と獲得する根拠を主張しないといけない。プロで活躍してから、『いい選手だと思っていた』と言うのはズルいですから」

 現在、長野・飯田ボーイズで中学生を指導する鈴木は、1979年から2006年までの28年間、西武ライオンズでスカウトを務め80年代に監督、管理部長として西武黄金時代の礎をつくった根本陸夫氏の下でスカウトのイロハを学んだ。

 主に関西と北信越の一部を担当し、清原和博、和田一浩、中島宏之ら多くの主力選手の獲得に奔走。獲得には至らなかったものの、岡田彰布、松井秀喜ら逸材も追った。

 昭和、平成を股にかけた名物スカウトが、担当選手とのエピソードを振り返りつつ、独自のスカウティング術を明かす。

「岡田彰布の家に行け」

 上司から初仕事を命じられたのは79年2月。クラウンライターライオンズが西武に身売りされた直後のことだった。

 71年ドラフト11位で阪神に入団した鈴木は、76年に太平洋へ移籍。球団は翌77年にクラウンライター、そして79年に西武へと名前を変えた。

 鈴木は一軍通算96試合出場にとどまっていたこともあり、西武への身売りが決まった78年10月、当時の根本陸夫監督の意向で、同年限りで現役を引退。大東文化大時代の恩師である岡田悦哉二軍監督を通じて、「スカウトか審判か、どっちかをやれ」と告げられ、スカウト転身を決意した。スカウトのスの字もわからない中、伊豆で行われたキャンプに同行した鈴木は言う。

「根本監督は、宿舎の下田プリンスホテルでスカウト陣に『今日からスカウトをやらせる。何も教えるな。好きにやらせるから』とだけ伝えて。実際、好きなようにやらせてもらいましたけど、前年まで選手だったし、就任当初はいったい何をやればいいのかという感じでした」

 一軍が2次キャンプ地の米国に向かったタイミングで鈴木は、79年ドラフトの目玉であった早稲田大学の岡田彰布(現阪神監督)の両親に会うため、新幹線で大阪に向かった。鈴木にとっての初仕事。しかし、岡田の実家の住所も電話番号も、どこの大学に通っているのかさえも知らなかった。

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

複数ページをまたぐ記事です

記事の最終ページでミッション達成してください