坂本龍馬「勝海舟の門下生になった俺、チョーやばくない?」…姉に宛てた書状に漂う“龍馬の人間味”【全国700名を指導する書家が解説】
THE GOLD ONLINE(ゴールドオンライン) / 2024年3月10日 12時0分
(※写真はイメージです/PIXTA)
時代の遷移にともなって「書」の特徴も変化し続けています。現代に残された書作品からは、各時代の特色を感じ取ることができるでしょう。そこで本稿では、前田鎌利氏の著書『世界のビジネスエリートを唸らせる教養としての書道』(自由国民社)より一部を抜粋し、書の逸話について解説します。
坂本龍馬「エヘンの手紙」と幕末の三舟
幕末といえば勤王の志士たちが明治維新へと日本中を駆け巡った熱い時代。
西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、高杉晋作、伊藤博文などの幕末から明治にかけて、時代を駆け抜けた若者たちもそれぞれ書状を残しているのですが、中でもとりわけ司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』(文藝春秋)や大河ドラマ「龍馬伝」の主人公である坂本龍馬の書状はとてもユニークです。
プライベートな書状が多数残っているのも、龍馬ファンが多い理由の一つではないでしょうか。
龍馬の自筆の一つに姉の坂本乙女宛に書いた通称「エヘンの手紙」があります。
内容は、勝海舟という大先生の門下生となり、責任ある立場となったことを「エヘンエヘン」と擬声語を使って姉に自慢している手紙です。時代を先駆けて世界を見つめる勝海舟の弟子となれたことがさぞかし嬉しかったのでしょう。現代であれば、「俺、チョーやばくない?」といった感じでしょうか。
エヘンという擬声語を何度も表記することで、この書状に込められた感情が溢れ出てきます。これまで紹介してきたどの書状よりも私信のせいか表現力が高められその興奮が踊るような文字の揺れた書きぶりにも表れています。
自由闊達に今の気持ちを相手に伝えることを情感たっぷりに手紙に込めて相手に届けるところは、龍馬の人間味が漂ってきますね。龍馬28歳頃の1863年に書かれたものですが、悲しいことに4年後には近江屋で襲撃に遭い、暗殺されてしまいます。
この手紙は漢字とひらがな、かたかなが混じって書かれているもので、身内に対してですから、かしこまらずに、伸びやかに行間、行の揺れ、文字のくずし具合や、自由な空気が伝わってきます。
この龍馬の師匠に当たる勝海舟。彼を含めて幕末の書が上手な方が三人います。「幕末の三舟」といわれる三人の書です。
幕末の三舟
幕末の三舟とは「勝海舟」「高橋泥舟」「山岡鐵舟」という名前に舟がつく三人です。
勝海舟はいわずと知れた江戸無血開城の立役者で知られていますが、実のところ徳川慶喜が西郷隆盛との交渉の使者として最初に選んだのは高橋泥舟でした。しかし、当時の江戸は不安な情勢のため、泥舟はその治安維持の役目から江戸の地を離れることができません。
そこで、信頼のおける義理の弟にあたる山岡鐵舟を推挙します。
勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、鐵舟が西郷と駿府で事前交渉を行います。西郷からいくつかの条件が提示され、その一つに徳川慶喜の身柄を備前藩にあずけることが示されましたが、鐵舟はそれを断固拒否。江戸百万の民と主君の命を守るべく、死を覚悟で交渉に臨む姿に、西郷は後日、鐵舟のことを次のように賞賛しました。
「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」
この山岡鐵舟は剣と禅と書の達人としてその名を馳せており、一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖です。
鐵舟は人から頼まれれば断らずに書を書いたとのことで、全国色々なところで鐵舟の書を見ることができます。一説には生涯に100万枚書したともいわれています。
その一つが東京銀座にある老舗のパン屋「木村家」の看板の書です。初代当主の木村安兵衛と山岡鐵舟は明治維新の前に剣術を通じて知り合い、その後、鐵舟が明治天皇の侍従をしている際に鐵舟の推挙により、あんぱんを明治天皇に献上したそうです。
現在この看板は残念ながら関東大震災で焼失してしまったそうで、そのレプリカが残っています。
鐵舟の書は剣豪の気質がそのまま豪快で力強く厳格な線に表れながらも豊かな円運動と組み合わせた書風で愛好家も多数お見えになります。
鐵舟が埋葬されているのは、明治維新の際に殉じた人々を弔うために自身が建立した全生庵(東京都台東区谷中)です。こちらの平井正修住職にお会いして、鐵舟の書を拝見させていただきました。
亡くなる前に沐浴をして座禅をしたまま53歳の若さで往生したその生涯は、自身にただただ厳しく歩んだことが、その書から溢れ伝わるものでした。
文明開花で書家は中国へ
明治には欧米諸国に引けを取らぬよう、様々な西洋文化を取り入れていくことになります。その中で、書の分野においては欧米に倣うことができません。それまで鎖国で海外との国交が長崎の出島でオランダと中国にほぼ限定されていましたが、一般人が公に海外との接点を持つことは難しい状況でした。
開国と同時に明治になって書家は書の発祥の地である中国へとその見聞を広げるべく技術や知識を求めにいきます。
この時、中国は清国末期の時代。
初代駐日公使である何如璋の随行者として楊守敬(金石学者、蔵書家、文人)が明治13年(1880年)に来日します。
楊守敬は金石学の研究をしており、多くの拓本を持参していました。
金石学とは中国古代の碑文を研究するもので、それまでの日本の和様の書とは大きく異なるものでした。
この時に伝えられた六朝時代(222年〜589年)の書は日本の書道界に大きな影響を与えました。
明治の三筆である日下部鳴鶴、巌谷一六、中林梧竹はこの楊守敬の影響を多大に受けた三人です。
その中の一人である日下部鳴鶴は「日本近代書道の父」といわれており、門下生は3,000人を超えたと伝えられています。
鳴鶴は彦根藩士で、明治維新後に新政府では大久保利通の下で内閣大書記官となって仕えますが、明治11年(1878年)、当時の内務卿(事実上の首相)であった大久保利通が紀尾井町で暗殺されます。
鳴鶴はこれを機に書家として専念することを決意し、明治43年(1910年)、勅命により大久保利通を讃えた碑文を揮毫することになりました。鳴鶴の最高傑作といわれる「大久保公神道碑」です。現在、青山霊園にあるこの碑文は、一文字の大きさが5㎝角で、総字数2919文字で日本最大の楷書の碑になります。
この書を鳴鶴は石川県の加賀山中温泉に150日間逗留して、書き上げたといわれています。お世話になった大久保利通を偲んで威風堂々とした六朝の書風で書き上げた大作は見応えがあります。
実は私の書の系譜を辿って行くと日下部鳴鶴に辿り着きます。
日下部鳴鶴―松本芳翠―津金寉仙―杉本長雲―前田鎌利
ご縁をいただき、日下部鳴鶴のゆかりのある彦根にて書道塾を開校しておりますが(2023年時点)過去に、鳴鶴の書や石碑を見る機会がありました。
そのたびに自分の書のDNAに触れているような感覚と共に、自分の師へ感謝をする時間をいただきました。
日下部鳴鶴の筆の持ち方は廻腕法という独特の用筆法です。
腕を大きく廻し、肘から先をほぼ水平に半月の形にして運筆する方法で、楊守敬から学んだものです。私も何度か試してみましたが、確かに筆が真っすぐ立って軸がぶれることが無くなります。
ですがこの用筆法で書くことは至難の業。
漢字がメインである中国ならではの用筆法でひらがなを含む日本語にはやや不向きな部分もあります。現在、廻腕法で書く人はほとんどみられなくなりましたが用筆法からも時代を感じることができるのが書の奥深さの一つでもあります。
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